【100分de名著を語ろう】いのちの初夜③(23/02/23)
こんにちは。
当日の配信になってしまいましたが、clubhouseの「100分de名著を語ろう」ルーム用のレジュメをお届けします。今回の範囲は、2月20日(月)に本放送があった『いのちの初夜』第3回放送分で、解説は中江有里さんです。今回までで、北條民雄の本文については読み終えることになります。この本編については、青空文庫にも収められていますので、kindleアプリ等で気軽に読むことができます。おススメです。
この短い小説には、名前のある登場人物は2人しかでてきません。まず、主人公の青年・尾田高雄。1930年代と思しき頃、彼はハンセン病の施設を訪れます。当時は「不治の病」とされ、また「業病」として蔑まれていたこの病気に罹患した尾田は、大きな絶望を抱えていましたが、また同時に、生をも模索していたと言えると思います。作品は、尾田が入所した日の翌朝までが描かれています。以下、番組テキスト(p.52~71)を振り返ることといたします。
①内と外から迫る「死」
入所した夜、尾田は悪夢にうなされます。「あの野郎死んでるくせに逃げ出しやがった」。追われる尾田。そこに、巨大化した佐柄木(=先輩患者で、患者の世話係)に捕らえられます。
②悪夢における「地獄」のイメージ
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※追記をご参照ください。
③生きることの恐ろしさ
悪夢から覚めた尾田。あらためて「生」と「死」というものを、根本から再考させられることになります。
「こうなってまで死にきれないのか(略)生命の醜悪な根強さが呪わしく思われた/生きることの恐ろしさを切々と覚えながら、寝台を下りると便所へ出かけた」。
「生きる」ということの定義づけが変わり始めたように思うのです。
「尾田さん、あなたは、あの人たちを人間だと思いますか」
「ね尾田さん。あの人たちは、もう人間じゃあないんですよ」
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのち(原文では傍点。引用者注)そのものなんです(略)ただ、生命だけがびくびくと生きているのです」。
④「生」を再定義する
現実を肯定し、本当の意味での「生」の原点へと立ち返るしかなかった。
自分たちの「生」を肯定できる立脚点を見つけることが何より大事だと考えたのだと思います。
ハンセン病を受け入れて、新しい生を生きよ、と。すべてはそこから始まる。
⑤「死の受容過程」との類似
盲目になるのはわかりきっていても、尾田さん、やはり僕は書きますよ。盲目になればなったで、またきっと生きる道はあるはずです。あなたも新しい生活を始めてください。
⑥わずか「一夜」の生んだ希望
やはり生きてみることだ、と強く思いながら、光の縞目を眺め続けた。
人生の転機とは、日常の些細なことに隠れているのかもしれません。
⑦追記
23/02/24(金)追記。
尾田が見た悪夢について、番組テキストの見出し①で、次のように記述されています。
私たちには「地獄」が炎(=業火)に焼かれているというイメージが親しいと思われます。北條の宗教的背景を探る手掛かりは見つかりませんが、こうした「地獄」が夢として現れたことは想像できるかと思います。
しかし「病を得」ることが、社会的な「死」を意味しながらも、そこからの再生ということが、本編の重要なモチーフとなっていることを勘案すると、ここでの「火」「炎」は、不浄を清めたり、ロシア民話における火の鳥(または不死鳥)が炎に身を投じたのちの復活、再生というイメージが流れ込んでいると指摘してもよいのではないでしょうか。
つまり、ここでは尾田(=北條)が、死を通じての「再生」を先駆的に予兆していたとは言えないかと思われるのです。
今回の「レジュメ」は、以上とさせていただきます。最後までお読みくださり、ありがとうございました。それではまた!
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