【clubhouse】竹田青嗣『中学生からの哲学「超」入門』を読む①
8月23日(月)21時より、clubhouse内にてオンライン読書会を開催いたしました。この日からは、第4期として、竹田青嗣さんの『中学生からの哲学「超」入門』(ちくまプリマー新書。2009年7月刊)をテキストとして進めていきます。
読書メーターによると、私はこの本を2014年に一度読了しているようです。いつの頃からか、何となく再読したいと意識するようになっていましたので、今回は読書会の主催者権限で(!)この本をチョイスしてみました。
さて、実際に「読書会用のテキスト」として再読し始めましたが、どのように参加者の皆さんと意見を交わしつつ、会を運用していいものか、少し迷いました。全体は、以下の4章構成となっています。「あとがき」はありません。
まえがき
Ⅰ 自分とは何者か
Ⅱ 世界はどうなっているか
Ⅲ なぜルールはあるのか
Ⅳ 幸福とは何か
初回にあたる23日の回では、Ⅰの半分程度までをメドに読んできてくださいとお願いしておきました(44ページくらいまで)。スピーカーとしての参加は、私を含めて4人です。
本著ではまず、竹田さんが哲学に引き寄せられていった経緯が述べられていました。いくつかの要素がありますが、
・学園紛争の頓挫、
・在日であること、
・神経症を病んだこと、
・失恋体験、
など、「自我」と「世界」が壊れることがきっかけではあったと書かれていました。しかしこの2つは、自己修復する力を持っているものであるとされています。今風に言えば、「生きづらさ」とどうつきあっていくのかということが、竹田さんにおける哲学への原動力になったものと理解しています。
この回では、いくつかの疑問、疑義が提出されました。ここでは、そのうちの2つについて書いておこうと思います。
①「第二章は、(略)哲学と宗教と、そして科学の関係との違いが、誰にも理解できるように書かれているはずです」(12ページ)
↓
ここは読み飛ばしていました。指摘されてみると、確かに流れが悪い。あくまでも「おそらく」でしかないのですが、
哲学と宗教と、そして科学との関係の違いが、誰にも理解できる~
の間違いなのではないかと想像しています。
②「この経験から、私は、最終的に、自分の感情の海の中に、絶対的にそうだと思えること(筆者注。原文では「傍点」で強調。以下、同様)と、この先はもう何とも確信をもてないことと、そしてその中間地帯との、三つの領域の境界線がはっきりある、ということが身にしみて分かったのです。」(33ページ)
この部分がよくわからないというお声がありました。私の場合、よくわからない点がでてきても、「その先には必ず言及、説明がされているはず」という、信頼とも期待ともつかぬものをもって先に読み進めてしまうという癖があるようなので、この「ひっかかっている」感には、うまく対応できませんでした。
次回は8月30日(月)に、この「続き」を行いますが、特に何ページまでを読みましょうという指定はせずに、思い思いの意見を交わそうということにいたしました。
参加についてのお問い合わせは、①Twitterアカウントか、②clubhouseアカウント showji_s までお寄せください。よろしくお願いいたします。
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今回は以上といたします。お読みくださり、ありがとうございました!