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創作シリーズ「熾火」(11)

こんにちは。前回までで、主人公・昌行の祖母・光江が死去し、周囲から生活保護を検討するよう諭されていた谷中家について書いてきました。今回はその続きです。

連続創作「熾火」(11)

谷中家の4人の兄弟のうち、実に2人が病床にあった。長男の昌行はうつ病が既に5年間回復せず、次男の昇に至っては10年以上も精神病(のちの「統合失調症」)であって、光江の葬儀の時期には精神科病棟に入院していた。谷中家を公私に渡って支援していた人びとは、生活保護の受給を開始してはどうかという点で一致していた。問題は、入院している昇の扱いであり、所帯構成をどうするかという点だったが、昇の退院後に受給が開始できるよう準備を進めることとなった。

実は、この検討に際しては、昌行は実質的にはほどんど、いや、全く関与していないと言ってよかった。うつの状態が思わしくなく、光江の葬儀に際しても、無理を押して参加したのであった。また、昇は主治医の許可を得て、一時退院しての臨席だった。

2000年頃からの「うつは心の『風邪』」というキャンペーンの含意は、「風邪」なので「治るもの」という点にあったはずだが、昌行の病状は改善されなかった。同じところを行き来しているように昌行には見えていた。派遣登録をしたり、アルバイト要員としてごく短期間働いたことはあったものの、すぐに勤務不能になってしまっていた。そのことは、昌行の自己評価を著しく損ねていった。

その頃昌行は、日本の社会とは人を使い捨てるものなのだという点に思い至った。「即戦力募集」とは聞こえはいいが、それは「弊社では従業員に教育を施しません」ということとほぼ同義だったし、派遣が最先端の働き方であるという思い込ませは、不安定で辞めさせやすい職場へと変化してしまうきっかけとなっていた。使いたい時にだけ集め、用が済んだらそれで終わりという人材の「材」の字とは、材料の「材」であり、廃材の「材」であると昌行には感じ取られていた。

昌行が再就職のために奮闘していた頃とは、若くて安くて、不安定(=辞めさせやすい)な人材活用へとシフトしていた時代であった。昌行の時給は、新たに派遣登録をする毎に減っていったようなものだった。

やがて昇の退院が決まり、それと前後して競売や退去の日程も決まっていった。谷中家の転居先を決めるのに尽力したのは、咲恵と滋だった。所帯の構成も、義和・峰子・昇の3人所帯と、昌行の単身所帯とを分けることが決まった。滋はそのまま由美子と暮らし、咲恵も新しくアパートに転居することになっていた。そして2006年3月、弁護士にベーカリーの鍵を渡して、谷中家の人びとは、それぞれの居に移っていった。荷物をまとめる暇はなかった。それはほとんど、夜逃げとも言ってよいものだった。

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