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感動は伝えにくい。しかし、共有しようとした方がいい。

絵画を鑑賞したり、音楽を聴いて感動することはよくあります。しかし、その感動を「語り合う」ことは意外に難しいことです。それでも自分の感動を誰かと分かち合おうとするのは、よいことだと思うので、それについて書きます。

さしあたってここでは、「音楽」「美術(絵画や彫刻など)」「映画」などについてまとめて考えたいと思います。「文学や批評」などを外してあるのは、そもそもこれらは「言葉」で成り立っているので、他の分野よりも語りやすいと思っているからです。

では音楽について。私が主として聴いているのは、クラシックと、映画やアニメのサウンドトラックです。ある時は気分が高揚したり鼓舞されたりもしますし、アニメやオペラなどで、そのキャラクラーが亡くなるとわかっているシーンでの曲に涙したりします。しかしながら、人に話そうとすると、「ああ、あそこよかったよねぇ」というのが精一杯。

「第2楽章の主旋律に寄り添うようなファゴットがたまんない~(仮)」なんとてことは到底言えません。しかし、「ああ、よかったねぇ」だけではちょっと物足りないと思うのです。そう、とてもおいしい料理を食べて、「おいしかった」としか言えないのに似ています。

映画もそうです。「あのシーンでの、脇役の死に様がよかった」とか「構図がすばらしかった」という言い方が私にはできません。

美術(絵画や彫刻など)はちょっと事情が違います。基本的にはそこに留まっていて、その気さえあれば、いつまでも対峙していることができるという点が違っています。そこから言うと、音楽や映画(文学も含まれますが)は、「時間の流れに沿う表現ジャンルであり、美術は時間の流れを留めようとする表現ジャンルなのだと考えます。

で。

私が何で感動を表現(=言語化)したり、共有しようとしたりすることにこだわるのか。それは、言語化されない感動は、その場限りの「ショック」や「インパクト」に置き換わってしまうからです。言語化したようにしか、記憶されていかないのではないかと思うんです。

しかし、感動を言語化することは難しいです。そのジャンルの知識が必要で、その知識の深さ(量ではなく)に応じて、自分の中に留めうる感動の質が変わってくるのだと思います。いま、()でくくりましたが、知識の「量」は、完動の深さを阻害する場合もあると考えたからです。

「めんどくさいじゃん」。

いや、そうなんですけどね。全ての行為について言語化が必要とは申しません。しかし「ここぞ!」という体験は言語化しておいた方がいい。自分の中で反芻し、それを深めることができます。何より、近しい間柄の人と分かち合うことができます。「ああ、ああ、あそこのバーンときて、グヮーってなるところね」で通じることもありますけど・・・。

今朝はこのくらいでお許しください。次に書きたいと思っているのは、感動の「源泉」とは何かということです。何でこの作品に感動してるんだろう?ということについて、考えを進めていければいいなと思っています。

まつき




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