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【P002】大塚久雄の『社会科学における人間』をめぐって③

こんにちは。

昨日(1月29日)フォロワーさんお二人に聴いていただいたおかげで、音声ファイルの収録が滞りなく完了しました。いもさん、関口さん、ご協力くださいまして、ありがとうございました。回を重ねることとなりますが、今後とも、よろしくお願い申し上げます。

これは音声noteとして、以下に公開してあります。ご協力いただいたお二人のお声をうまく拾えていないのが心残りなのですが、どう改善できるのかがわかりません・・・。

※設定したのは自分なので、何を今さらと思われるでしょうが、冒頭30秒が「試聴」対象となっています。全体については、「マガジン」をお買い上げいただくか、BFJ(Bookforest Japan)プレミアムプランにご加入くださいと表示されています。これについては、再検討対象といたします。

さて、今回お話ししたのは、誰もが小さい頃に読んだだろう「ロビンソン・クルーソー」についてです。これを、経済学(大塚久雄さんは、「経済史」の人です)の眼で見た場合に、どういった観点が取り出せるのかということについてお話ししました。

ロビンソンは、17世紀イギリスの人物として描かれます。彼の乗った船は難破してしまい、ロビンソンは一人生きて孤島に流れ着きます。その孤島で、何と彼は28年間も生きながらえるわけですが、彼を支えた知識や生活様式は、何に由来していたのかということです。敢えて問題を単純化すると、他の時代や地域の人間だったら、どのように生活していたかを考えてみてはということです。つまり、例えばネイティブ・アメリカンや中国の人だったら、同じような生活をしたかということです。

あわてて補足しておきますが、ロビンソン=17世紀の英国人「だからこそ」生きながらえた、英国人すごい、ということではありません。

社会と切り離されてなお、ロビンソンは、その社会で刻印され、身にまとった生活様式(=文化)を営んだと言っていいと思います。では、その生活様式とはどんなものだったかということが、この『社会科学における人間』での問題設定だったと思っていただいていいです。

問題を簡略化します(いや、精確に記憶できてないからの「言い訳」です)。ロビンソンは、例えば船から穀物を集めて島に持ち帰ります。それを全部食べてしまわないで、種としてまいて育てます。収穫されたものも、種として残して次の収穫に備えます。つまり「再生産」をするわけです。

こうした、「合理的経営」とでも言えるような生活様式を、ロビンソンは身につけていた(他の時代や文化圏ではありえなかったこととは言いません)。そうした生活様式、あるいは文化を、どのような歴史的・社会的な文脈において身につけていったのかが、この本で語られていきました。

さて、この本は1977年という、いささかというにはかなり以前に出版された新書です。「新書」という出版形態の賞味期限は、3年過ぎると古びたものになってしまう(とぼくは考えていますが)ことを思うと、これは「異常」といっていい「ロングセラー」です。ことによると、大塚さんの問題設定は、既に論駁されているかもしれません。

にも関わらず、ぼくがこのプロジェクト(連載企画)の冒頭で取り上げることにしたのは、この『社会科学における人間』という本が、その後の本の選び方や読み方、それからぼくのものの見方・考え方を、強く方向づけたからです。そのことは、回を進めていくことで説明ができるかと思っています。

今回はこれくらいで結びとします。次回は、本の内容に沿って、マルクスの経済学における人間という観点でのお話しとしたいと思っています。最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。それではまた!

※有料設定表示がされていますが、本文はここまでです。

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