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clubhouse企画:10分de名著『影との戦い』ゲド戦記第1巻[012]

「10分de名著」とは?

Eテレの長寿番組「100分de名著」のパロディ企画です。clubhouse内のクラブ「100分de名著を語ろう」で新設したもので、希望された方に、5~15分程度でご自身の名著について語っていただこうというものです。第一回目は、言い出しっぺの私が務めさせていただきました。

『ゲド戦記』と『影との戦い』

『影との戦い』は、アーシュラ・K・ル=グウィン著(1968年)、清水真砂子訳(1976年)で、岩波書店から刊行されました。今回再読したのは、岩波少年文庫版(2015年)がKindle化された『影との戦い』です。

全体を6巻で構成する『ゲド戦記』は、最初の3巻が連続して刊行されたしばらく後に、4~6巻が刊行されました。このうちの第5巻の邦訳は、始め「外伝」として刊行されました。のちに改題されて第5巻という位置づけとなりました。以下に、全6巻の邦題を掲げておきます。

1)影との戦い
2)こわれた腕輪
3)さいはての島へ
4)帰還
5)ドラゴン・フライ
6)アースシーの風

本作は、「アースシー」という空想世界で繰り広げられる物語で、どこの星とも、どの時代とも記述されていません(が、終結部近くで「地球」と記載されていることがわかりました。ただし、これは私たちが生きている、「この」地球をただちに意味するものとは思えません)。

物語の主人公は、幼名をダニーといい、のちに通称でハイタカと呼ばれますが、師匠の魔法使い・沈黙のオジオンによってゲドという「真の名」を与えられた青年です。

ここでは、始めに物語の概要を、その後にいくつかの「考察」についてご報告したいと考えています。

1)ゲドが戦ったものは何だったのか
2)真の名と魔法について

で、この2つについて、まとめることができれば良しとしたいと思っています。

物語の概要

幼名をダニーといった少年は、ゴントという山中の村に育ちました。いわゆる「悪ガキ」でした。彼には「まじない」を操る才能が備わっており、その力で侵略者たちから村を救ったことがあります。

その力を見たまじない師の伯母は、自分自身でその才覚を伸ばしきることはできないと考えて、ゴントを訪れた大魔法使い・沈黙のオジオンにハイタカを託します。

ハイタカは、そのオジオンによって「ゲド」という「真の名」を授けられ、彼の弟子となってゴントを後にします。オジオンによる「修行」はとりたてて特別なことをするわけではなくハイタカは退屈を感じるようになります。

修行中のある日、領主の娘にそそのかされて、禁忌の魔法を使って、ハイタカは「影」を呼び出してしまい重傷を負いますが、オジオンによって一命をとりとめます。

その後オジオンは、ロークの学院に進むかどうかをハイタカに訪ねます。学院へと進んだハイタカは、カラスノエンドウという親友を得ます。また、同じ学院生であるヒスイに挑発されて、死霊を呼び出そうとしてしまいます。これは、例の「影」でもありました。

死靈によって、顔などに大きな傷を負っただけでなく、学院長である大賢人ネマールが命を落としてしまいます。回復したハイタカは学院を後にします。

旅の途中、竜との戦いを経たあと、太古の言葉を語る「石」から逃れるために、ハイタカはハヤブサに姿を変えますが、長い時間姿を変えていたため、自力では元の姿に戻れなくなってしまいます。ハヤブサの姿のまま、ようやく師匠のオジオンの下に辿り着き、オジオンによって何とか人間に戻ったハイタカは、彼を追いかけていた「影」に向かい合い、逆に追撃を開始するよう、オジオンに諭されます。

旅の末に、親友であるカラスノエンドウがいる島にたどり着いたハイタカは、彼と共に、影を世界のはてにまで追いかける旅にでます。

そして影を追い詰めて、ついに影と対峙します。以下、少しですが、訳文を引用します。

・一瞬ののち、太古の静寂を破って、ゲドが大声で、はっきりと影の名を語った。時を同じくして、影もまた、唇も舌もないというのに、まったく同じ名を語った

・光と闇とは出会い、溶けあって、ひとつになった

・傷は癒えた。おれはひとつになった。もう、自由だ

・ゲドは勝ちも負けもしなかった。自分の死の影に自分の名を付し、己を全きものとしたのである。すべてをひっくるめて、自分自身の本当の姿を知る者は自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない

こうして、「ゲド」は影と1つの存在となり、長い旅が終わります。

考察① ゲドが戦ったものは何だったのか

ここからは、少し考察を試みることにします。まず、ゲドが呼び出し、ゲドを追い詰め、その後にゲドと1つになった「影」について考えてみます。

私はこの再読まで、「影」とは、ゲドそのものの持つ、「負の部分」であると考えてきました。ゲドが「光」であり、影が「闇」の部分を示します。心理学的にも、「影」と呼ばれるものに対応するものと考えてきました。そうした、正の部分と、負の部分とが、互いの名を呼び合って1つのものとなります。

ここから考えられるのは、自分の心の中での正と負の部分とは、元々は1つのものの両側面であり、その合一が果たされたことで、ゲドの「戦い」が終結をみたと考えていました。

しかしながら、今回の再読で気がついたことは、ゲドと影との関係は、そこにはとどまらないのではないかということです。影とは「死」そのものであり、ゲドと影との合一とは、「生」と「死」の合一を示唆している。つまりは、「生」と「死」とは、本来1つのものであり、共に「いのち」の両側面として存在するのではないかということです。

現代では、死とは生の「敗北」であって、忌むべきものと考えられているように思います。後にも触れることとなると思いますが、生の一方で「死」があることで、世界には「均衡」がもたらされていると考えられないでしょうか。

以上が、考察の第一点です。

考察② 真の名と魔法について

次に、「真の名」を知ることと「魔法」について、少し考えてみます。

ハイタカには「ゲド」、親友カラスノエンドウには「エスタリオル」という「真の名」があります。オジオンによって、ハイタカは真の名を告げられますが、これはオジオンが思いついたものなのか、既にあったものを「読み取った」ものかは、私にはわかりませんでした。

また、ゲドが対峙した竜や太古からの精霊が、「影」の真の名を知らせようとします。しかしゲドは、それを拒みます。

真の名を知るとか、知られてしまうというのは、どうやら決定的に重要なことのようです。真の名を知った者には自由を奪われ、思いのままにされてしまいます。例えば作中では、動物や鳥、あるいは波などを操るときに、その真の名を知る必要があると描かれています。

それでは、この「真の名」とは、私たちの世界では何に相当するのでしょうか。作者であるル=グウィンは、アナロジー、類推による現実世界と対応させることを拒んでいると聞きますが、敢えてその禁を破ってみます。それは、「秘密」であり「約束」なのだろうと考えます。何となれば、秘密を知られることは、自分の自由を奪われることであり、約束を交わすことも、それに類することだろうと思います。

さて、読んでいて気がついたのですが、作中では「まじない」と「魔法」、「まじない師」と「魔法使い」とが使い分けられています。「まじない」については、考察の材料が乏しいので、これ以上のことは申し上げることができません。

一方、魔法については、真の名を知ることで、対象に作用するものと言えるでしょうが、その結果、世界の均衡が破れることがあるとの記載があったように思います。その均衡を保ち、回復しようとする「反作用」があるということです。それ故に、魔法は慎重に用い、最小限度に留めおくことが望ましいのだろうと思います。

以上、物語の概略と、若干の考察を述べてみました。作品の価値が損なわかったことを願うばかりです。また、読んでみようかなと思っていただけていたら、うれしく思います。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。ときどき課金設定をしていることがあります。ご検討ください。もし気に入っていただけたら、コメントやサポートをしていただけると喜びます。今後ともよろしくお願い申し上げます。