桐野夏生さん「オパールの炎」を読んで

 桐野夏生さんの「オパールの炎」を読んだ。
「ピ解同(ピル解禁同盟)」として華々しい活動をしていた塙玲衣子はなぜ突然姿を消したのか。当時の様々な関係者に話を聞き、彼女自身やその後の行方に迫るというストーリー。1972年に「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合」を設立した榎美沙子さんがこの小説のモデルとなっているとのこと。

私は榎さんについて、今回この本をきっかけに初めて名前を知ったくらいなのだが、榎さんにしても、この小説の塙さんにしても、

 その訴えに時代が追いついておらず、早すぎたから、上手くいかなかったのではないか。
今だったら、もう少し違う形になったのでは?

と評されることがある。

確かに当時に比べれば、時代は変わってきた。ピルも解禁になったし、#Me Too 運動で女性が声を上げることも増えてきた。

だけど、もし、今たとえばピンクのヘルメットを被って、幟を持って、女性たちが「私の体は私のものだ」と訴えたなら、同じような結果にはならないだろうか。

ピンクのヘルメットでなくても、SNSやその他の手段を通じて、声をあげたなら。

今でも「フェミ」という言葉や概念が嘲笑の対象となるような、小馬鹿にされるような、面倒くさい人といったような扱いをされているのを見たり聞いたりする場面がある。

榎さんの活動開始から、約50年が経っても、同じ結果にならないとは言いきれない。

他にもこの本の中で次のような箇所がある。

「マスコミの連中は、私がヌードになれば許してくれるのだ」と。確かに、世間を騒がせた女を裸にすることで、男たちは溜飲を下げますよね。「あれは女に対する罰なのだ、私は絶対に屈しない」

 今は多少少なくなったのかもしれないけれど、そういう風潮は残っていると思う。

でも、男性がたとえば、パワハラや不正や不倫などでお茶の間を騒がせ、世間から許してもらうためにヌードになるというのは聞いたことがない(私が知らないだけで、あるのかもしれないけど、男性だって許してもらうためにヌードになる必要はないと思う)。

需要の問題と言ったらそうなのかもしれないけれど、声をあげて、派手に活動をしていた女性のヌードに需要があるということ自体が、懲らしめたい、貶めてやりたいという暴力的な欲望をはらんでいるようで、悲しい。

私にできることは小さいけれど、少なくとも、私は榎美沙子さんのことをもっと知って、そして覚えておこうと思う。
榎さんだけでなく、今まで声をあげてきた女性たちのことも。

表舞台から姿を消してしまった一人の女性の存在を教えてくれた「オパールの炎」に感謝したい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?