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マイルドセブン

テニスコートの上は真夏の光にさらされ、余計な蒸気が肌に不快な潤いを与えるような、そんな真夏の午前に、「おじさん」は現れた。

とは言っても、この出来事にはなんの事件性もないし、おじさんは変わり者ではあったが悪人ではないみたいだった。ただ、彼はフェンスの外からずっと中学生たちがテニスをしているのを眺めていた。「朝練」という名の拷問に中学生たちが若き肢体を伸ばして取り組む姿やら、夕暮れ時、燃えるようなオレンジ色に染まったクレイのテニスコート脇で、ボールを数える新入部員の手先やら、いろんなものをじっと眺めている。テニスコートから人がいなくなると、おじさんも帰ってゆく。後ろに手を組んで、とぼとぼ、とぼとぼ、田んぼの方へ向かって歩いていく。

おじさんは一言もしゃべらない。ただ、アウトドア用の折りたたみ椅子に深々と腰を掛け、このクソ暑いのに帽子もかぶらず、額に汗を浮かべて若者たちがボールを追いかけているのを見ている。ボールがフェンスの外に飛んで行っても、取りに行ってくれることはなく、ずっと同じ場所、桜の木の下に鎮座しているだけ。

おじさんは誰にも害を与えない。ただそこにいるだけであった。だが、ある日突然、おじさんはいなくなった。

次の日、学級担任が「不審者情報」などという紙を配った。「その男は初老で、じっと眺めてくるので気をつけてください」みたいなことが書いてあった。怖いな、という人がほとんどだった。あのおじさんだろ絶対、なんて言う声も上がっていた。

もやもやする心をテニスコートに置いてくのを忘れ、しょうがないのでチャリの荷台に乗せて家に帰る。途中、コンビニへ寄った。愛しのチョコモナカジャンボが食べたくなったのである。会計を済ませ、自動ドアが開くと同時に袋をバリッと破ってかぶりつく。うまい。心のモヤモヤが甘ったるい霧に覆われて一瞬だけ、見えなくなる。

隣からタバコの香りがした。

見ると、あの「おじさん」である。マイルドセブンの青い箱からから一本取り出すと、よどみない動作で火をつけ、一服やっている。その動作にはありあまる孤独がにじみ出ているようにみえた。

当然、声をかける勇気はでない。俺はモナカのゴミを備え付けのゴミ箱の中にぶちこもうとおじさんの後ろを通り抜けた。

「テニス、好きか?」

急に声が聞こえた。突然のことにびっくりした。

「好きっていうか、部活だから、やってる」

へどもどしながら答える。やはり、怖い。

「そうか、そんなもんだよな。」

おじさんは、とぼとぼと去って行った。孤独のにおいを、タバコの煙に乗せつつ、田んぼの方に向かって、歩いてゆく。

そして、自動ドアに映る自分の冴えない顔を見ながら、俺も考えた。


おじさんには何の悪気もないのかもしれない。ただ、俺たちみたいな若年者が「こわい」と感じてしまうのであれば、そこにいるだけでおじさんは悪者になってしまう。いずれ自分も齢を取ったとき、「若者」の眼に自分はどう映るのだろう?きっと、恐ろしいだろう。年老いて、いろんなものを失ってゆく日々の中で、むくむくと成長し、力をつけ、自分たちをおびやかす、見ていて非常に気持ちのいい、そして脅威となる存在、それが後輩なのだろうか。

アホくせえ。

モナカでべたべたした手の汚れをハンドルに擦り付けようと必要以上にぎゅっと握りしめ、チャリに乗っかって、家に帰る。




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