他人が怖い話

 最近コロナの影響のせいか、店での会計をするときに見慣れない機械を扱うことが増えた。今日も本屋で支払うときに、機械でカードを読み取るのだが、カードの入れる向きが分からなくて手間取った。以前も使った気がするのだが、カードの向きは相変わらず良く分からない。

このところ、外出先で気を張らずに済むようになったと思う。ポカをやらかす回数が増えた気がする。昔は絶対ミスをしなかった。会計の際もたぶん前の人のやっている様子を観察して、レジ前でもう一回確認して、間違えないようにやっていたと思う。用心深いというか、神経質というか。

思えば、私は昔からずっと気を張って生きてきた。それは幼少期からずっとだ。

5歳ぐらいだろうか、何をしたかは覚えていないが、何か悪いことをして父に頭なぐられて外に出された時だろうか。兄も一緒に怒られていて、二人して泣いていたのを覚えている。ずっと泣いていた。痛くて、悔しくて、寒くて、親に見捨てられたと思った。結局30分ぐらいで家に入れてもらえたのだが、その当時、悪いことをすると家から出されるという罰を何回か受けていた。

おそらく、そのころから、私は親のことがずっと信じられないでいる。幼いころに感じた不信感とは根強く、未だ親のことは信用できない。

小学校に入り、3年生ぐらいの時であろうか。6年生かもしれない。体育館でみんなを集めて講演会を聞いた。その時のテーマは「マンホールチルドレン」で、ロシアのマンホールに住む子どもたちの話だった。親を亡くし、家も無く、路上での生活を強いらた子どもたちが、ロシアの気候では路上だと凍死してしまうので、少しばかり温かいマンホールの下で暮らしているという説明だった。写真も見せられた。彼らは衛生的に清潔とは言えない環境で、鼠たちと戦いながら、暮らしているのだと。

講演を聞いているとき、私は泣いた。どうしても彼らが可哀想でやるせなくて、そんな理不尽な環境に怒ってもいた。

でも、講演が終わって、みんなが教室に戻る時、周りを見渡したら誰も泣いていなかった。みんな平然な顔をして、感想を言いながら教室に戻っていく。

それを見て、私の涙はすぐに引っ込んだ。どうして、そんな平然としていられるのか不思議だったが、それ以上にこの涙を見られることは危険だと思った。私は「みんなとちがう」ことしたのだとすぐに悟った。

当時の学校はいじめがあった。学級崩壊を引き起こすようなものではないく、小規模だが確実にあった。下手に目立つといじめられる可能性があったので、当時友達と呼ぶ人達はいたが、心を許せる人は誰もいなかった。私はクラスの中では結構優秀な方だったので、目立つ。ゆえに目立ち方には最新の注意を払っていた。下手に目立つとターゲットにされてしまう。「優秀」以外の目立ち方はしないようにしていた。

この講演会の涙は、見られるとまずい類の物だった。故に我慢した。だが、そこから他人への不信感がますます拡大していった。怖い。人間は簡単に「チガウモノ」に対して牙をむく。だが、その恐怖を悟られないように、変に孤立もしないように気を使って生きていた。

中学は、小学校の延長だった。やっぱり不良がいて、いじめがあって、恐ろしかった。人が多かった故になおさらである。他人との付き合いは、なるべく変に思われないように気を付けていた。この頃は(今もなのだが)、どうも他人の心情を無視する行いがあり、たまに注意を受けていたため、そうならないよう気を張っていた。

そんな中で、唯一安心できたのが、小説を読んでいる時だった。この時だけは、自分を空想の世界に飛ばすことができるし、本を読んでいれば他人を無理なく拒絶できる。休み時間は暇さえあれば図書館通って本を読み漁っていた。あとから考えれば完全に逃げであったが、後々、当時の友人に当時は「飄々としていた」と言われて笑ってしまった。どうも、一人で図書館通いしているのがそう映ったらしい。

中学ではなるべく、いじめに関わらずに生きていきたかったが、避けられないことがあった。私がいつも入れてもらっていた女子グループで仲違いが起こったのである。当時、どうしても好きになれない子が居り、結局その子を無視してしまった。このことは今でも悔やんでる。同時に当時持っていた綺麗な自分という幻想は打ち砕かれた。所詮私も、結局はいじめをするようなやつだったのだと、いじめなんかしてと見下していた奴らと何も変わらないのだと思うようになった。

高校は地元の進学校に行った。さすがに進学校ではいじめをするような奴はいなかったが、息苦しいのは変わらなかった。皆同じタイムスケジュールで動いているため、目立つ行動はできなかった。小学・中学からの閉塞感は変わらなかった。

このころは進路について考えるのが本当に苦痛で、何もしたいことは無かった。ただ、ひたすら本だけ読めれば良いと本気で考えていた。働くのが本当に嫌で、みんなと同じ道に進むのが本当に嫌で、嫌で仕方がなかった。だから、とりあえず大学へ行こうと思った。大学へ行けば自由が手に入るかもしれないからと。親にも誰にも相談できなかった。きっと当時の私の他人へ不信感は相当なものだったのだろう。誰も本当に信用できないと思っていた。

高校2年から、私の成績は以前よりだいぶ下がってしまっていたが、何とか遠方の大学に留年せずに進学できた。留年だけはしたくないと思っていた。それは親に借りを作ることだったから。なるべく親の負担は軽い方がいいし、その方が私も親から離れやすいと思っていた。

こんな風に10年以上も過ごしてきたから、大学へ行った時の衝撃は忘れない。本当に自由だった。そもそもみんなで同じ授業を受ける必要が無い。誰と交友関係を結んでも、結ばなくてもいい。一人で変なことしていても誰も気にかけない。真に解放された。そう思った。

本を読むことは好きだし、勉強も理系じゃなければ好きだ。そもそも何かを知ることは楽しいということを初めて共有できたのも大学だった。これまでは、勉強は強いられてするものという皆の共通認識があったから、こんなこと言えなかった。

夫と出会ったのも大学で、私は夫と出会うまで人前で泣かないようにしていた。それは弱みを見せる行為で、自分を守るために強くなければいけなかったから。しかし、夫と付き合い始めて、「強がらないで泣いて欲しい」と言われて、本当に久々に人前で泣いた。何かが許された気がした。

でも、それですぐに自分の枷が外れたわけではなかった。「みんなとおなじにしなければならない」という枷は大学時代はずっとあった。就職して、仕事を辞めて、結婚して、夫と付き合い始めてから7年たって、ようやく、言語化できるまでに至った。特に、最初の仕事を結婚を期に辞めて、2年間ほとんどパート先の人としか会わない「断友」状態で心を整理して、やっとである。それまでは、人と会うのが怖いという自覚さえも無かった。

今でも他人は怖い。完全に信頼できるのは夫のみで、他の人にはいまだに不信感が残る。初対面ならなおさらだ。

それでも、信頼できる人を得てちょっと気が抜けるようになった。些細なミスをして自分を責めることが無くなった。他人に弱みを見せても絶望的なショックを受けなくなった。なんだかよくある話になってしまったが、それだけのことが、本当に、本当に嬉しい。

ようやく私は、私を生きていけるようになったのだと思う。


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