誰もが突出しようとしていて疲れる

 世界転移物(転生)(以後「なろう系小説」と呼ぶ)の小説が好きで、よく読んでいる。異世界が題材であるだけあって、設定は現代に沿った物ではなく、小説やゲームの世界を題材に(またはそのまま設定に)しているものが多い。主人公も何らかの特殊能力や知識を有していることが多い。

話は変わるが、本屋のラインナップを見ていると、「特別」「異端」「できる」などのワードが並ぶ一角がある。毎回それを見ると、うへぁと顔をしかめたくなる。

そもそも、異端とか特別とかって「よし、なろう」と思ってなれるものなのかは疑問だ。私の体感覚では、それらは「なる」ものではなくそう「ある」ものであると思う。初めから違っているもの、いつの間にか外れているものである。そこに人間の意思が介在する余地はないのではないか。

では、多くの人が目指す「特別」とは何か。まあ、いわゆる成功者なのだろう。なろう系小説の主人公のような、チートな能力を有してその能力で快刀乱麻な働きをしてみせる存在なのだろう。又は、乙女ゲームに出てくるヒーローのような。

間違っても彼らは、食うに困る状況になったりしないし、なったとしても自分の能力で何とかしてみせるし、仕事は出来るし、他人からバカにされずむしろ尊敬され、いい立場もあって、たくさんの人に慕われて、ついでに綺麗で優しい奥さん(または旦那)に愛されて、自分も人格者で、子どもにも恵まれて…etc。そんな成功者を目指している。

確かにそれは理想であるし、実際羨ましい。そんな奴が身近にいたら嫉妬の炎で焼き切れるかもしれない。だが、それは特別な存在であることも知っている。


「特別」とは相対評価である。相対評価とは比較だ。

問題は、皆がそれ(主人公)を目指し、そして実現していくことで、それは「普通」になってしまうということだ。つまり、先ほど言った理想的パーソンに近い状態が「普通」と認識されてしまうということである。

言い換えれば、その理想的パーソンに遠い存在は「落ちこぼれ」「ダメなやつ」とみなされるし、また理想的パーソンに近い「普通」の人はさらに「特別」になろうとする。まさになろう系である。

そうやって、どんどんどんどん「普通」のハードルが上がっていっていると、最近とみに感じるのだ。

そしてどうしても「普通」になれない私は、無駄に劣等感を抱えなければならないのがたまらなく嫌だ。

皆がそれを目指して相当な努力をしているのは知っている。今タリーズでこれを書いているが、周囲には勉強に精をだす高校生や中学生、リモートワークをしている会社員や読書をしている女性や交渉事をしている人たちを見ることができる。

みんな頑張っている。とても努力している。そして、それがしんどい。

皆が頑張れば頑張るほど、「普通」のハードルは上がり、さらに頑張る。経済学の「合成の誤謬」みたいだ。では、そこについていけない人はどうすれば良いのか。私はついていけそうもない。

しかし、仮に頑張ることを放棄した場合どうなるのか。メディアを見ると色々な報道がなされている。それら一般的には社会的立場も低く、不幸に見える生き方である。

それが本当に不幸であるかは当人にしか分からないが、そういった不安が常に脅してくる。頑張らなければああなるんだ、と。

その不安は、どこか心身に刷り込まれたもののようだ。本当に頑張ることを止めた時、不幸になるかは分からない。意外と、心地いいものになるかもしれない。でも、実際にやってみるのは怖い。

故に、未だ努力を放棄できないでいる。

どうしたらこの不安から解放されるのだろうか。やはり特別になるしかないのであろうか。それとも悟りでも開けばいいのか。

異世界にでも行ければ、解放されるかもしれない。

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