見出し画像

つながっているという風穴

スーパーのレジを出たあとの商品をつめるスペースで、おばあちゃんが若者に話しかけている。
何を話しかけているのかはわからない。けれど、どうやら二人は知り合いではないようだ。
若者は笑顔で話すおばあちゃんに少しどぎまぎしながらも、笑顔で対応している。

こんな光景は、きっと日本中、いや世界中で今日も見ることができるだろう。コロナが広がってからは数そのものはかなり減っているにしても。
僕がこういう光景に出くわすたびに思うのは、世界につながりは足りているのかということだ。

家の中にいる。ネガティブな状況にいると、思考もネガティブによりがちだ。一人でもんもんと考えていると、まるで出口のない迷路に迷いこんだようにあちらへこちらへ行ったりきたりする。
そうしているうちに、気持ちは落ちこんでいく。ああ、俺はほんとうに大丈夫なんだろうか!?

ふと、ツイッターを見る。僕はいいなと思うツイートがあると、ついコメントをしたくなる。頭に浮かんだ言葉を外に出したくなる。
返事がある。うれしい。
そのときに思う。風穴がほしいのだ。

何度か顔をあわせたことのあるあの人との交流。それは僕にとって風穴だ。ある程度だけど、僕のことを知ってくれている。そこでやりとりが生まれる。
自分一人だけの世界に、少しだけ、ほんの少しだけ、風穴があく。その穴から他人の風が入ってくる。
僕はその瞬間、少しだけ気持ちが楽になったように感じる。

もちろん、入ってきてほしくない風もある。けれど、僕らはきっと、風穴なしには生きられない。いいかえると、つながりなしには生きられない。

今日は、いくつ風穴があいただろう。あんまりあけられた気がしない。これからもっとあけていきたいな。

冒頭のおばあちゃんを思い出す。おばあちゃんは今日、風穴をあけられただろうか。見知らぬ相手だって、風が通ることもある。
見えない壁をそれぞれが持ちながら、それでもその壁から隙間をつくり、他人とつながりたい。そう願っている人は多いんじゃなかろうか。僕の考えすぎだろうか。否、そんなことはないはず。。

コロナ禍の中、風通しはいいだろうか。
スーパーでおばあちゃんに話しかけられたら、僕はそっと、風穴をあけたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?