ヘイトスピーチ規制に関する、青識亜論さんとぼんの議論

議論のまとめとして、雑感めいたことを3点述べます。
1 表現の自由の制約に関する一般論
2 実質的に特定人へ向けられない憎悪表現等(以下「不特定HS」といいます。)は人格権を害さない(利益衡量のリングに上げない)と考えることの是非
3 不特定HSのうち、被差別・抑圧属性に対する憎悪表現等(以下「差別的HS」といいます。)が、特に重大な人権(人格権)の侵害をもたらすという理屈、すなわち相乗効果(仮)を無視することの是非

1 表現の自由の制約に関する一般論

ここでは憲法論の基本を確認します。知見のある方は読み飛ばしていただいて構いません。

表現の自由が制約されるのは、①他の人権と衝突する場合であり、②その人権との利益衡量にて劣位する場合です。

ある表現により、誰かが不利益を被るとしても、その誰かの「人権」を害するものでなければ、①他の人権と衝突する場合には当たりません。人権の一つに人格権があると考えられており、侮辱や名誉棄損は、人格権を害するものと考えられます。

ある表現が人権を害するものである場合、当該表現の規制の是非は、②その人権との利益衡量により決せられることとなります。
利益衡量の方法ですが、単にどちらが重要かを考えるわけではありません。普遍的・定型的な判断を行うため、違憲審査基準(この要件を満たさなければ、自由の規制は認めない、という基準)に従って判断することとなります。

表現の自由の制約が許されるかどうかを判断するための違憲審査基準の一例として、「明白かつ現在の基準」があります。具体的には、以下の要件を満たす場合に、表現の自由が劣位し、表現の自由の制約が許されることとなります。
A.近い将来、実質的害悪を引き起こす蓋然性が明白であること
B.実質的害悪が重大であること
C.当該規制手段が害悪を避けるのに必要不可欠であること
差別的HSを規制することの是非を検討するに当たっては、特にBの要件が問題になると考えられます。

まとめると、①人格権を害するかどうか(すなわち、利益衡量のリングに上げるかどうか)という問題をクリアした先に、②表現の自由との利益衡量(違憲審査基準による審査)が待っています。いずれもクリアした場合に、はじめて表現規制が許されます。

2 不特定HSは人格権を害さない(利益衡量のリングに上げない)と考えることの是非

青識亜論さんも私も、実質的に特定人へ向けられる憎悪表現等について、処罰が許される場合もある(表現の自由が制約される余地がある)ことは、意見が一致しています。現行の刑法典では処罰ができない場合、然るべく修正されるべき可能性があることについても、同様です。

問題は、実質的に特定人へ向けられているとはいえない、憎悪表現等について、人格権を害さない(利益衡量のリングに上げない)と考えることの是非です。

私は、表現の発露の方法が、特定少数人に向けられたものではなく、また、表現内容が抽象的集団を名宛人としている場合であっても、当該集団の一員の名誉や尊厳を傷つける場合はあるし、そのような場合を一律に「人格権を害さない(利益衡量のリングに上げない)」と評価することは妥当でないと考えています。

この点について、青識亜論さんは、「人格権を害さない(利益衡量のリングに上げない)」と一律に評価すべきとの意見を述べています。問題はその理由ですが、青識亜論さんは、「表現の自由の底が抜ける」、すなわち、「抽象的集団の構成員を守る為という理屈で、表現の自由を規制し放題になってしまう」から、と仰っています。利益衡量のリングに上げた場合、最終的には裁判官が利益衡量を行うこととなりますが、その裁判官の判断は必ずしも信用できない、ということも仰っています。

私はこの意見に反対です。理由は3点あります。

第一に、表現の自由が、①他の人権と衝突する場合に当たるかどうかの判断も、②その人権との利益衡量にて劣位するかどうかの判断も、いずれも、最終的には裁判官が行います。立法の段階では立法府であり、主権者一人ひとりです。
本当にこれらの判断者が適正な判断ができないならば、①の判断も②の判断も、おかしな判断がなされるでしょう。そのため、②についてのみ、適正な判断ができないのではないか…と危惧することに、意味があるとは思えません。

第二に、反対利益から目を背けること自体の不当性・不公正性です。
指摘するまでもなく、特定人に向けた憎悪表現等では捕捉できない、不特定HSによる加害が問題となっています。現実に深く傷つき、日常生活を脅かされている人々がいます。そのような現実を前にして、人格権(人権)が侵害されていないかを、真正面から検討せずに、「表現の自由が制約される可能性を拓かないように」という理由で、人格権(人権)は侵害されていないのだと断ずることは、不公正であると感じます。
真正面から検討した結果、人格権(人権)の侵害があるのだと考え、利益衡量のリングに上げたとしても、本当に表現の自由が守られるべきであるなら、その利益衡量にて正々堂々と負かせば良いように思います。

第三に、「表現の自由」に対する“世間の評価”に与える影響についてです。
表現の自由の価値が、表現の自由の保障を強く主張する方々(青識亜論さんも含まれると思っています。)の意見や態度を通じて評価されるというのは、あり得ることだと思います。
そして、表現の自由の保障を強く主張する方が、HS規制のような表現の自由の制約が問題となる場面において、「利益衡量のリングにおいて、表現の自由の価値を高らかに掲げ、正々堂々と戦う」ということを避け、「表現の自由を守りたいから、できる限り利益衡量のリングに上がらせない」という態度でいたら、どうなるでしょう。
『表現の自由、逃げてばっかりで、本当は対して重要じゃないんじゃないの?』という評価が広まらないでしょうか。(我こそ最強と宣いながら、対戦相手を選り好みしてなかなか戦おうとしないボクシングチャンピオンをイメージしていただくと、わかりやすいかも…。)

私は、表現の自由の価値を信じる1人として、そのような事態を危惧しています。

3 差別的HSが、特に重大な人権(人格権)の侵害をもたらすという理屈、すなわち相乗効果(仮)を無視することの是非

青識亜論さんは、差別的HSが、特に重大な人権(人格権)の侵害をもたらすという理屈、これを便宜的に相乗効果(仮)と呼びますが、この理屈を検討することを拒否(却下)しています。
理由としては、相乗効果(仮)であれ何であれ、特定少数人を名宛人としない表現行為については、その自由は認められなければならないということや、仮にこの理屈を認めれば、社会法益的なものをいくらでも作り出して表現を規制することができてしまうことが挙げられています。

これについても、概ね上記2と同様の理由で、反対です。
「特定少数人を名宛人としない表現行為については、その自由は認められなければならない」という結論を理由に据えて検討を拒否することは論理的でないですし、他の理屈による別種類の表現規制が認められてしまう可能性を理由として、相乗効果(仮)についても検討を拒否する態度は、公正でないと感じます。

青識亜論さんからは、差別的HSの表現規制の是非について検討をするなら、「日本国への侮辱をする表現の規制」や「児童ポルノ漫画の規制」等の他の事例についても検討しなければ無責任ではないか、という旨の指摘がありました。それはその通りで、仮に、この両事例と差別的HSとで結論が分かれ得ると考えるなら、その理路は示せなければならないと思います。
(簡単に説明すると、日本国への侮辱…の例は、差別的HSと異なり相乗効果(仮)が存しないこと、児童ポルノ漫画…の例は、漠然とした不安や根拠の乏しい憶測に基づく理由付けに過ぎないこと、が挙げられます。)

しかし、裏を返せば、他の事例による表現規制が想起されることを理由に、差別的HSの表現規制(とりわけ相乗効果(仮))について検討をしないというのも、同様に無責任といえます。それぞれ、表現の自由の制約の是非を決める基準(違憲審査基準)に基づき、検討をして、結論が出されるべき問題だと思います。


以上、文字通り雑感となってしまいましたが、議論を通じて感じたこと、お伝えしておきたいことを書かせていただきました。

今回は議論の対象から外させていただきましたが、今回の議論の先に、差別的HSが相乗効果(仮)により特に重大な人権(人格権)の侵害をもたらしているのではないか、という点や、そのことを前提に、違憲審査基準に則り、差別的HSの規制が許されるか否か、という点についての議論があるのだと思います。そのような議論がなされるべき、というのが、今回の議論を通じた私の見解になります。

青識亜論さん、今回の議論にお付き合いいただきありがとうございました。

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