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ショートショート「秘密の副業」

 初対面の男に突然「白髪を染めないでくれ」と頼まれたのをきっかけに、本当に染めなくなって今ではもうすっかり髪が真っ白だ。実際の年齢よりも老けて見られるが、それが返って良かった。

 五十半ばを過ぎて独身。親兄弟はいない。親戚付き合いもない。恋人はもちろん、友達もいない。平日は会社と家との往復。社内では、上司には何の期待もされず、部下の誰からも頼られない存在だ。会社帰りに飲みに誘われる事も誘う事もない。外回り中、いつも決まった場所に車を停めてレシピサイトを見ながら献立を考えておいて、帰りに格安のスーパーマーケットに寄って材料を買い、簡単な料理を作る。古いアクション映画を見ながらそれを食べる。
 それだけだった。自分の人生に何の期待もしていないし、面白い事など何もないはずだった。

 ところが四か月前のある日曜日。
 いつも通り浅草の初音小路にある「梅よし」でちびちびとビールを飲みながら、競馬中継を見ていた(唯一の趣味である)のだが、そこで声をかけられた。
「あーた! ねえ、そこのあーたですよ」汗だくの男が声を荒げて現れた。目つきが尋常じゃなく、目が合った瞬間「しまった」と思った。周辺にいた通行人や他の客も何事かと動きを止めた。
「あーた、ちょっと、悪いようにはしないからアタシの話を聞いて!」
 すぐそばまで来て立ち止まったその男に両肩を掴まれた。
「何ですか?」と肩の手を離すように促す。
「いきなりで本当に申し訳ないが……」男のすまなそうな顔が誰かに似ている。
 私達が腰を下すと、周囲も興味を失ったようだった。
 とりあえず、ビールを頼んだ男は一気に飲み干すと話し始めた。そしてあまりに突飛な事を言い出したものだから「え゛え゛!!!」と声をあげてしまった。
 悲鳴にも似た奇声を出したことでまた注目を浴びてしまった。
「いやいやいやいやいや、それは無理です!」押し殺した声で抵抗した。
「そんな事を仰らずに、どうかこの通り!」男が頭をテーブルに頭をこすりつけた。テーブルの上にあったもつ煮がひっくり返りそうになった。

 その日を境に、誰にも知られてはいけない秘密の副業が始まった。主に昼の仕事を終えた後だったが、たまに日中の場合もあって、そういう時は貯まっていた有給休暇を使った。
 副業の職場では先輩から飲みに誘われ、後輩からは慕われ、外を歩いていると応援されたり握手を求められたりした。普段の職場での、居ても居なくても変わらないような存在とは全く逆の存在になれた。
 大勢の人を目の前にして喋る事が出来るようにもなった。アクション映画や競馬について好き勝手喋っても喜んで貰えるばかりでなく、たびたび笑いの渦が巻きおこった。
 まるで特殊な能力を手に入れたような感覚に似ていた。
 普段は存在感の薄い、しがないサラリーマン。だがそれは世を忍ぶ仮の姿で、その正体はスーパーヒーロー……。
 変身していられる時間が制限されているのもカラータイマーみたいで益々ヒーローみたいだった。
 しかし、私にとっての本物のヒーロー、救世主は彼だ。
 彼があの時私の前に現れなかったら、きっと今頃は死んだような目で世の中を眺め、死んだように生きていたはずだ。少しずつ少しずつ精神が擦り減って、生きる気力みたいなものが萎んでいたはずだ。そこから救ってくれたのは間違いなく彼だった。

 彼は落語家だった。
 それも落語通の間では知らぬ者はいないほど人気の落語家だった。
 彼は自分と容姿がそっくりな私を見かけて衝動的に行動したようだった。
「たまにアタシと入れ替わってくれるだけでいい。たまにでいいから」
 良く見ると本当に似ていた。鏡で見る自分が自分の意志とは別の行動をとっている、ホラー映画とかでよく見る現象が目の前で起きている。自分と同じ顔の人間が必死の形相で懇願している。その頼みを無下に断われるわけがなかった。
 彼と私の決定的な違いは髪の色だった。「白髪を染めないでくれ」と私に頼んだのはそのせいだった。
 
 とにかく話だけは聞いた。
 彼はやはり人気の落語家だけあってとても忙しかった。睡眠時間は短く、自分の時間や家族との時間は無いに等しかった。
 自分と同じ顔をした人間が押しも押されぬ売れっ子の落語家だというのは単純に嬉しかった。なぜか自信も湧いた。彼が忙し過ぎてかなり精神的に追い詰められているのも伝わってきて同情もした。
 だが一方で、彼は私が持っていない全てを持っているのだと気付く。同じ顔なのにどうしてこうも人生が違ってしまうのか。妬ましい気持ちが大きくなった。だから私は普通に考えたら無謀すぎる彼の頼みを引き受けたのだ。
「もし上手く行かなくて彼の人生がめちゃくちゃになったとしてもそれがどうしたというのだ」という気持ちで。
 
 彼から教わったのは、入れ替わった時の楽屋での振る舞いについてと、よくやる落語を一つ。そして落語家仲間同士で使う符丁をいくつか。着物の着方と畳み方、サインの書き方も覚えた。
 いよいよ私の髪の毛が真っ白になると本当に彼と見分けが付かなくなった。

 彼と入れ替わった初日。
 いくら容姿がそっくりとはいえ、すぐにバレるだろうと思っていたが大丈夫だった。楽屋にいた前座に「師匠、とても具合が悪そうですよ」と声を掛けられた程度で済んだからこちらが驚く。楽屋では体調が悪そうにしていればいいというのは彼の指示だった。客の前でみっちり稽古して完全にコピーした落語を演ると、見事に爆笑につぐ爆笑だった。あまりにウケるものだから正気を失いそうになって変な間が生まれてしまったが、それでもウケた。
 数回入れ替わりをやり遂げると、すっかり自信がついていた。演芸場の前で出待ちのファンに急に握手やサインを求められても余裕を持って対応出来た。

 二重生活を始めて一番変わったのは普段の仕事だ。今までつまらなくてだらだらとこなしていた仕事を集中してこなせるようになった。周囲が見えるようになって誰がどんな事で困っているか、上司や部下の性格も把握できて、感情の流れのようなものが見えだした。
 あれだけ嫌だった職場への通勤が苦でなくなり、だんだんと上司や部下や同僚から声をかけられるようになった。以前だったらそれが煩わしく感じたが快く応じる事が出来た。飲みに誘われるようになって、こちらからも自然と誘えるようにもなった。
 社内での私の評判が急上昇しているとわざわざ教えてくれる者がいて「髪の色が変わったと思ったら人柄も変わった」と噂されているらしいとわかった。少数だが「人気の落語家に似ている」という声もあって楽しかった。

 一年が経ったある日。彼から連絡が来た。私は「いよいよか」となりすましの終焉を覚悟していた。
「あーたのせいで、前よりも忙しくなりましたよ。どうしてくれるんですか!」
 満面の笑みで私に苦情を言う彼に言い返す。
「あーたのせいで、前よりも人生が楽しくなりましたよ。どうしてくれるんですか!」
 しばらく私の秘密の副業は続きそうだ。

<了>

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