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ミュージカル「CROSS ROAD~悪魔のヴァイオリニスト パガニーニ~」 感想 2024②

大千秋楽から2週間以上も経っていますが、公式のフォームに感想を投げるためについったへの書き散らしたちをまとめてみたところ全然まとまらなかったので、再再演のときに見返す用という意味も込めてもう一本感想文を書きました。1万6千字もあって自分でも読み返すのが嫌になったので校正が甘いですが勢いで公開します。

以前書いた感想↑は東京初週に2公演観たタイミングで初演との比較が中心だったので、今回はその後東京3公演と大阪2公演を観て気付いた点や解釈が変わった部分などを中心に書きます。新演出にも慣れてきたというか最早初演より観た回数が多くなってしまったので、初演との差についてはかなりフラットに観られるようになった気がします。

Act1

SCENE1 呪われた館

開演前に舞台にかかっている幕が、表(客席)側は黒・裏(舞台)側は赤色でアムドゥスキアスのマントの配色と同じになっていて、クロスロードという作品自体が悪魔のオペラであるようにも見えてとても好きです。

シアタークリエでは幕がオペラカーテン式に中央で割れて左右斜め上に開き上演中も舞台端に残るので常に裏地も見えていましたが、新歌舞伎座(と博多座もそうらしい)は緞帳式で真上に幕が上がり上演中はすべて収納されてしまうので、かわりに開演前は幕の中央あたりを少し捲って留めたような、裏地の見えるデザインにしてスポットを当てていました。

それから、藤沢朗読劇と言えば開演前の井上宝さんの優しいお声のアナウンスですが、ミュージカル版の初演はあったこれが再演ではなくなっていて寂しかったです。初演はコロナ禍で注意事項が多かったから柔らかい宝さんのアナウンスで伝えたかったということらしいのですが、作品の時代背景の解説とかも一緒に流れていたはずなのでそれは残って欲しかったですね。

SCENE2 アーシャとパガニーニの出会い

主人公の第一印象がこんなに悪いミュージカルも珍しい気がします。

バッチーニは楽屋に侵入したアーシャには怒っていてもエリザには笑顔でわりあいスイートに反応していて、エリザに免じて今回は許してやろう、という風なのが身内への優しさとそれ以外への冷たさがはっきりしたバッチーニらしく、他方ケンティーニはエリザに対してもさほど優しくなく見えて、実は手綱を握っているのはエリザの方なので来客にめちゃくちゃ吠えている中型犬とそれをいなしながらちょっと面倒になっている飼い主の図に見えていつも面白く観ていました。

SCENE3 Baby Paganini

ベイビーニコロの後頭部がちょっと絶壁なのが好きでいつも見てしまいます。これを書きながら思ったんですが、シーンタイトルがベイビー“ニコロ”じゃなくベイビーパガニーニなのってシニョーラパガニーニと合わせてるからっぽくてなんか可愛いですね。

ニコロにとっての「命の音楽」はお母さんに貰った曲だったけれど、お母さんにとっては「あの子の笑い声がこの世界で唯一の音楽」だったこと、その愛の大きさに慄きます。

これを横で聴きながらニコロを告発したコスタ先生は人の心がなさすぎる、などと言うと簡単ですが、これもまた篤い信仰心と音楽への忠実さが引き起こしたことだと考えると恐ろしい気がします。

話は変わりますが、コスタ先生経験者であるハタマンドがコスタ先生の扉を開けるときにいつもニッコニコなのがすごく可愛くて好きです。畠中さんのアルマンドの良さは後述しますが、Wニコロより20歳以上歳上でいらっしゃるのに初演ではコスタとベルリオーズ(史実ではパガニーニより21歳下)の2役を成立させていたことの凄まじさを改めて感じる再演でした。

SCENE4 パガニーニの挫折

パガニーニが思うようにヴァイオリンを弾けず苛立って叫ぶシーン、その直前の暗転中にカプリースが流れているのですが、この時点で既に彼の頭の中にはカプリースの構想があるのに、技術不足故にアウトプットができないことに苛立っているんだなとある回で急に気が付きました。

だとするとテレーザに「練習してたの?」と言われて楽器を隠すのも、実は練習ではなく新曲試奏だったから。練習が上手くいかないのは当然ですが(上手くできないことを練習しているわけなので)新曲試奏で曲が良くないどころか演奏自体がままならないのを知られたくないから、作った曲を聴かせてと言われたくないからと考えると納得できます。

さらに、この時点でカプリースの構想があったとすればCreul Godで歌われる「天国のメロディー 心躍るリズム」もカプリース(など)を指していると考えられ、これは"パガニーニの音楽"が悪魔との契約以前からあった彼自身のものであることも示します。

個人的に初演時から気になっていたことの一つは、実在したニコロ・パガニーニという人に対して「本当に悪魔と契約していたとしたら」というクロスロードの設定は、契約していないことが明らかだからこそ成立するifではありますが、冒涜的だと思われる可能性も高いのではないかということでした。今回、元々パガニーニがカプリースの構想を持っていたと気付けたことで、彼の作品たちも決して魔性のものではなくパガニーニ自身が聴いた“天国のメロディー”としているのだなと、改めて本人へのリスペクトを感じられて嬉しかったです。

それから、前の感想で「食べるパンがなくても歌うのよ」と言ったテレーザと「食えなきゃ演奏する意味なんかない」と言ったニコロの信仰の篤さの違いについて書きましたが、神への信仰だけではなくて音楽に対する腹の括り方の違いでもあるなと思うようになりました(というか作劇上の本来の意味はそちらのはず)。

生活費を稼ぐためだけの手段のように言いながらも「あんな酔っ払いに絡まれながら演奏するの、耐えられない」と自らの音楽に誇りを持っているニコロと、家族で演奏するのが楽しいからお金が無くても酔っ払いに絡まれながらでも演奏すると開きなおっているテレーザ。テレーザも十字路の悪魔を見かけたことがある人なのに、この境地に達して天真爛漫に「ギャンブルと歌だけは上手なの」と言ってしまえるようになっているのは一体どんな経緯だったのでしょう。

私自身、母親が真剣に音楽を志すもプロの演奏家にはなれずにアマチュアで音楽を続けている人で。音楽を辞めてしまった私からすると身内ながら尊敬の念に堪えないのですが、幼少期にはその母に「音楽の道に進むのだけは辞めなさい」と言われていたものですから、自分の才能の限界を受け入れながら息子の才能は心から信じられるテレーザの強さは想像に絶するものがあります。

SCENE5 血の契約

このシーンの話では無いのですが、新歌舞伎座で3階席に座った時に感じたのが、回り舞台の上の十字路状のセットを見下ろすか見上げるかによる視覚的な効果の差でした。

盆の十字路のセットの上は人ならざるもののレベル(高さ)で、悪魔アムドゥスキアス・契約後のパガニーニ・死後のテレーザ(・悪魔に操られた市民と司教)しか上がることができません。しかし3階席から見るとむしろ十字路が(高さでも前後でも)舞台のセンターにあり、そこが物語の基準のレベルに見えてしまうように感じました。(逆に新歌舞伎座は当然歌舞伎舞台なので1階席に対しては舞台が高く、しっかり見上げられるので良かったです。)

またこの人ならざるもののレベルの話では、博多座公演前に公開されたバックステージツアーの映像で

木内さんがセットの2階について「選ばれし者しか上れないと言われている、、、」と言うと相葉さんがそれに軽く「そうなの?笑」と返しているのが解釈に一致しすぎていてひっくり返ってしまいました。バッチーニはあまり自分の才能を疑っていないのでそこに上がれない人のこともあまり目に入っていなくて、ケンティーニは自分は上がれなかったあるいは上がるべきではなかったと思っているから「この作品にはここに行かない人が沢山いる」こともそこに上がる重みも知っているんですね、、、。

SCENE6 悪魔のヴァイオリニスト

悪魔と契約したパガニーニの演奏を聴いたテレーザが「あれは天使の歌声」と言うのをアムちゃんが嫌そうにしているのは知っていましたが、コスタ先生が「悪魔のようなスタッカート」と言ってる時は「わたしの作品🥰」という感じでにこにこなのを最近知りました。素直か。ここのウィーン貴族たちが(パリ貴族と違って)地毛で可愛くて好きです。

SCENE7 アーシャ

Asha The Gypsyの振付はアリーシャのときにはバレエ的に流れるような優美なリズムなのに、リリーシャのときにはヴァイオリンのメロディラインを腕と弓で、ベースラインを足のステップが拾って別々に動いているように見えるのが面白いなあと思っているのですが、ダンスの知識が足りないのと衣装の布量が多くてよく分からないままでいます。

アナテマ隊に対して紳士的ではないまでも冷静な対応をしているのでアーシャを「ジプシー」と呼ばれたことが逆鱗に触れたことがはっきり見えるバッチーニはマントで覆い隠してしまうくらいの勢いでアーシャを守ろうとしていて、何となくパガニーニへの恋情を感じさせるアリーシャとの組み合わせが好きです。リリーシャは豪胆なので、あちこちに噛み付いて回っている不安定なケンティーニとの組み合わせが微笑ましくなります。

アナテマ隊の掲げるプラカード?に“Devil's Violinist”と書いてあり、所有格=悪魔の“支配下にある”ヴァイオリニストのニュアンスなんだなと思っていたのですが、作品の英題なのか、パンフレットの表紙には“Violinist The Devil”と書いてあり、同格=ヴァイオリニスト自体が“(人間ではなく)悪魔である”になる気がして、気になっています。英弱すぎるのでなにも分かりません。

喧嘩を止めるアムドゥスキアスがパガニーニの弓を掴んだ後に、ケンティーニがいつも弓の掴まれたあたりを軽く触って確認するような素振りをするのが好きでした。自分の楽器を人に触られるのって嫌ですよね、、、。
ケンティーニは別の場面では弓の張りを調整するネジを回しているところもあったりして(調べてみるとパガニーニはモダン弓も使っていたみたいです)、解像度が高くて嬉しくなります。

SCENE8 アムドゥスキアスのプロデュース

この場面の最大のポイントは、酒場の店主の中野さんがパガニーニに酒を持って行ってちょうどよく「失せろ!」と言われるために一緒に酒場を切り盛りしている兄弟の趙さんとの掛け合いでいつもタイミングを図ってくれているところだと思っています。BIG LOVE。

新演出にはすっかり慣れましたが、未だにめちゃくちゃ嫌なのが謎に笑いどころが増えているところで、せめて本筋に自然に戻れないようなアドリブだけはしないでほしい、というささやかな願いは演出家とプロデューサーに聞き届けられたのかノートが入ったという噂を聞きました。とてもありがたいし大阪以降はあまりアドリブのレポを見なかった気がします。

「何も無い荒野に野薔薇が一輪、咲き誇る姿を堪能するか摘んで部屋の飾りとするか」「サディストめ……」のくだりで私の親パガニーニであるミズニーニさんに摘まれる花の自覚がありすぎたせいでめちゃくちゃお耽美なシーンだと思っているので、ここでチョけられるのが本当に嫌で、、、。それはそれとしてバッチーニは変質者を見るが如き冷たい目をしてくれる日があって大変好ましく思っています(何?)

バッチーニは悪魔と契約してからもずっと正気を保っている印象なのですが、その彼が酒場で演奏する時に最初はヴァイオリンが勝手に奏でていてそれに引っ張られてるような動作をしていて、アムドゥスキアスが「俺たちの音楽」と歌うあたりから呼吸が合っていきいきと演奏しだしたことに気付いたとき目から鱗というか、それに引き上げられてはいるけれど基本は本人の能力で弾いてるんだなと感じて、とても面白かったです。

これはこの後の異端審問でも、ケンティーニは悪魔的演奏中にお母さんの声によって引き戻されて演奏をやめ膝をつくのに対して、バッチーニは自ら弾き終わってすぐ疲れたように崩れていて、やはりドーピング的な、ポテンシャルを引き出されすぎて疲れているような印象がありました。また後にパガニーニがエリザに「今夜は疲れている、誰にも会いたくない」と言ったベルリオーズの訪問の日を、アムドゥスキアスが「今夜のお前は特に素晴らしい」と評していたのにも納得できます。

話は戻ってM13 Violinist The Devil、演奏時の振付が基本は血の契約と共通ですが曲に合わせてサルサ的なニュアンスで表現されているのがとても好きです。同じく異端審問ではロック調になったり。初演時の感想にサルサやロックやタンゴなど色々なジャンルの曲があるのに全体には統一感があるのが好きだと書いた覚えがあるのですが、振付にもそれが波及した感じがします。

結局悪魔学は再履修できないまま再演を終えてしまいましたが、アムドゥスキアスの「街から出る手助けをしてやろう。あくまで、お前の自由意志だがな」は、特に“悪魔的な”台詞のうちの一つだと思っていて、招かれないところへは行けない悪魔らしい言い草が気に入っています。

SCENE9 悪魔の踊る教会

この場面のバッチーニとテレーザとのやりとりがとても好きで、
「あのねえニコロ」「どうしたの」
「教会から遣いが来たのよ」「だからそれは断ってよ」
→ニコロは何度目かの演奏の依頼だと思っている
「あなたの演奏があまりにもすごすぎて」 「だから何?」
→母が言い募るので怪訝
「教会にも行かないし」「だから何なんだよ!」
→だから何、の回答が得られていないことに苛立ち
「悪魔と契約したんじゃないかって」「悪魔と?馬鹿馬鹿しい」
→母さんまでそんなことを?
「大司教様が直々に調べるって」「……コンサートじゃないの?」
→急に核心に触れられて困惑
と、異端審問への出頭命令を受け取ってしまったテレーザがどうマイルドに伝えようかと持って回った言い方をして、ニコロは教会に行かないことを責められていると思ったら実はもっとヤバいところからの怒られが発生していた、、、というすれちがいが驚くほどクリアに見える声の芝居が素晴らしかったです。

これも多ステの功で、ジェノヴァ時代のパガニーニのフラストレーションはお金が無いことやパトロンがつかないことだけはなく、せっかく自分の理想の音楽を技術的には奏でられるようになったのに、そうなったらそうなったで「悪魔のヴァイオリニスト」と言われてしまいきちんと曲を聴いて貰えないことに起因するのではと何度目かの観劇で思い付きました。

コスタ先生は「そんな演奏法はない」「こんな演奏技術は持っていなかった」ということを、大司教は「悪魔と契約したか否か」だけを気にして、その曲がどんな風であるのか何を表現しているのかには触れられていません。パガニーニ本人は「鞭のよう」に表現しているスタッカートは「悪魔のようなスタッカート」だと捉えられてしまっている、その怒りが「黙れ凡人ども」に繋がるのかなと思いました。

前にクリエはオペラカーテン・新歌舞伎座と博多座は緞帳と書きましたが、1幕が終わりはオペラカーテンが勢いよく降りて来る方が断絶や取り返しのつかない感じがして個人的には好きでした。

Act2

SCENE1 エリザ・ボナパルト

エリザは正確にはルッカ及びピオンビーノ大公妃なんですが、ルッカッピオンビーノって1つで言ってる方がいる気がしてちょっと気になっています。それはそれとして貴族の山﨑さんが可愛くて好きです。

M18 Tango To Sinは旋律の難しさももちろんですが、Violinist The Devilのサルサ同様、パガニーニがいるヨーロッパから遠く離れた地域の音楽でその上この時代にはまだ(少なくとも今の形では)存在すらしないと思われるタンゴを悪魔のテーマにしているセンスが天才すぎませんか?全体通して各楽器がよく立ったオーケストレーションが特長的な作品だと思っていますが、タンゴもまたヴァイオリンの擦弦楽器らしい特色がよく出るジャンルで素晴らしいと思います。

SCENE2 絶頂期

再演のmy初日にケンティーニがエリザをバックハグしていたので舞台っぽい〜!と思って沸いていたのですが、マチソワだったのでその日のソワレでバッチーニは普通に正面から抱きしめてくれることを知って情緒がぐちゃぐちゃになりました。

エリザの罪については、モーションこそ血の契約と同じように悪魔の手を額に当てていますが彼女はシンプルに“悪魔の誘惑に負け”ているので、操られるがままパガニーニの地位を押し上げようとしていると思っています。

この部分は、初演はあくまで“悪魔によって不当に引き上げられた”演奏技術であるという文脈だったのでそれで得た富も地位も当然罪悪でしたが、新演出では「至高の音楽を求める」向上心として理解されているのでそれに付随する富と地位も悪いものに見えにくくなっていると思います。清貧を良しとするカトリック的な世界観の中では富と名声を得ることも求めることも罪であり、一般的な言葉で言えば“野心的”なだけのエリザがパガニーニを“堕落させるファム・ファタール”と表現されてしまう意味が少しぼやけてしまっていた気がしました。

(尤も、これはあくまで脚本家のファンで初演のオタクである私の気持ちであって、カトリック世界観を全面に押し出されたとしたらもっと共感しにくい取っ付きにくい作品になってしまうのだろうとも思います。)

抱き合ったパガニーニとエリザが盆で上手に流されて行き下手からは悪魔と熱狂する貴族たちが出てきて始まるM19 World Knows、 大きな装置(=運命)に取り込まれて流されていくような展開の早さが恐ろしくて、大好きな場面です。後半にアムドゥスキアスと貴族たちが「聞きたいか?」「宝石を売り払ってでも!」と言っているあたりでパガニーニがしばらく長く後ろ向きで立ってる時間があり少し不自然で気になっていたのですが、クリエのサイドの席に座った時にケンティーニが民衆の「悪魔のヴァイオリニスト!ニコロ・パガニーニ!」の叫びに反応してニヤッと笑ってから正面に振り返るのが見えて良かったです。この部分は日に日にエスカレートしていき、新歌舞伎座では仰け反って大笑していかにも悪魔的だったので心でスタオベしました。

ケンティーニは楽器を持つと性格が変わるタイプというか悪魔憑依型で、Violinist The Devil→異端審問→World Knowsと段々正気じゃない時間の方が長くなっていく、侵されて悪魔と一体になっていくようなイメージがあります。異端審問のときはバッチーニと違ってまだお母さんの呼びかけで我に返ることができただけに、World Knowsでは完全にアムドゥスキアスに全てを明け渡してしまっているのがより悲しくなります。

SCENE3 ベルリオーズ  

エリザから花束を受け取るとき、初演の時は両パガニーニがあまり花自体に興味がなさそうだったので、コンサートが成功する度に花を増やす→命が減る度に花が増えると受け取ったパガニーニと、それを素敵な思い付きとして話すエリザのコントラストがはっきりしていましたが、今期のパガニーニは可笑しげに笑いを含んだ風に「なんだか花の数が増えていないか?」と言っていて、ケンティーニに至ってはエリザの手ごと花束を握ったり、バッチーニも長椅子に掛けるエリザの腰に手をやって支えたり普通にイチャついているのが可愛いです。

ベルリオーズくんについてはチョけないでくれパート2です。とは言いつつそこまでアドリブが激しいわけでもないのに、去り際にアムドゥスキアスとすれ違ってお辞儀をするところで笑いが漏れる客席が肌に合わなすぎて蕁麻疹が出るかと思いました。

「リストやショパン、シューベルトと演奏……」と目を輝かせているパガニーニですがこれは皆World Knowsで悪魔に「お前の弓で撃ち抜け」と言われている音楽家たちで、劇的な人格の変容として表現するよりは二心を抱くパガニーニの孤独がもっと真に迫って見えると良いのかなという気もしています。

「僕は悪魔なんか信じちゃいないさ。ただ神はあの無礼な人でなしに才能を与えた」と宣うベルリオーズに問うアーシャの「神様は信じるのに、悪魔は信じないの?」という台詞は、悪魔が実際に登場するクロスロードの世界観の上では逆説的に神の存在も肯定しています。それは必ずしも神の"救い"の存在の証明にはなりませんが、エデンの園を追放されたカインでさえも守り見捨てなかった神ヤハウェの存在が肯定されていることはこの作品世界において重要なことのように思います。

SCENE4 Proud of you

お母さんが楽屋に来たとき、いかにも落ち着きなくクッションの位置を整えたりするケンティーニと、動揺はしていても「どうぞ」と椅子を勧められるバッチーニの差から生まれた熱量でミネストローネを炊いています今。

アムドゥスキアスとテレーザの会話の裏で流れているDearest Handは朗読劇CROSS ROADの同じ場面に使われていた曲で、その後藤沢朗読劇(で村中さんが音楽のとき)の客出し曲として定番化したものなのですが、いつも終演後にああ今回も素敵な作品だったなというあたたかい気持ちと劇場から離れ難い気持ちで聴いている曲に、テレーザの命の終わりかパガニーニの演奏の終わりかへの寂寥が重なって、いつも胸が詰まります。同時にミュージカルクロスロード自体の終演に身構え始めるのもこのあたりなのですが、まだ2幕4場なので意外と先が長いことに6場で気付いて嬉しくなって、7場まで来るともういよいよ寂しくなって、を毎回繰り返している気がします。

ものすごくどうでも良いことですが、コンサートのチケットをお腹のあたりのポケット?に仕舞っているアムドゥスキアスが妙に面白くて好きです。

SCENE5 母の死

新歌舞伎座の公演では暗転中も完全な暗闇ではなく転換が薄っすら見えてしまうのが少し残念かなと思った場面もあったのですが、クリエではほとんど見えなかったアーシャにカンパネッラを教えるパガニーニのシルエットがしっかり見えたのはお得感があって?好きでした。

「音楽を楽しむ権利がお前にはある。俺には無いが」と言うケンティーニはそれを悲しみ不服を覚えているようですがバッチーニは傷付きながらも優越感があり、持てる者ゆえの悩み、という雰囲気がある気がします。

音楽を楽しむ権利がないくらいならまだマシで、母親が亡くなったときにただ神に祈ることも出来ず自分が犯したことと「母さんを天国に」と願う素直なクリスチャンの心の狭間に落ち込んでしまうニコロの苦しみは、日本生まれ日本育ち実家は浄土真宗という素朴な信仰観しか持たない私には共感できませんが、その感情の強さ深さにはいつも客席で圧倒されて、自分のことよりも涙が出ます。

SCENE6 エリザ・ボナパルトの決断

エリザは最初から「コルシカの田舎娘」「それが本当の私」だったのだから、宮殿で一人ぼっちだったときもニコロに覇権を取らせるために情熱を燃やした絶頂期さえも、本当の姿を失ったままだったんだと考えるとやるせない思いです。

前にアムドゥスキアスとエリザが血の契約と同じ額に手を当てる動きをすると書きましたが、 M29離れれば離れるほど愛 でエリザが同じことを今度はニコロの手にするのは本当の意味でニコロの奴隷になる、例えエリザが求める愛が与えられずともニコロの命のために傅くという決意に見えて、悪への傾きから立ち直ろうとする人間の意思の力の強さを感じます。

このエリザの額に当てられるニコロの手は左手、アーシャにも大事にしろと言ったヴァイオリニストの大切な左手を無防備にエリザに預けて離さないニコロが子供のようで、母を喪ったニコロと愛を求め続けるエリザが身を寄せ合っているような悲痛さと、薔薇のあどけない鮮やかな黄色が今も目に焼き付いています。

M30満たせ耳を はトランペットのファンファーレが特徴的な、作品全体の中でも特にシンフォニックな曲です。トランペットと言っても編成的にどうしても生音ではなくキーボードかEWIの電子音になってしまうのが残念ですが、教会音楽で神の楽器とされるトロンボーンでもなく、元は角笛でオーケストラでは雄大な自然などを表現するホルンでもなく、貴族や軍隊の楽器であり戦いの象徴・天使も奏でるとされるトランペットが悪魔アムドゥスキアスの成り立ちの曲に使われているのが、巧みだなあと思います。

SCENE7 ベルリオーズへの援助

パガニーニがわざわざ人を遠ざけるのは悪魔の手にかかる弱みを作りたくないからで、だからこそベルリオーズに歩み寄ろうとしたときにはもう誰も弱みになり得ないくらいに覚悟を決めているのだと感じます。

ベルリオーズのコンサート会場で丁寧にチケット代を支払ったパガニーニに嬉しげで感慨深げなリリーシャに対し、「私の分も一緒に払ってます!」と言わんばかりの堂々とした歩みで一緒に入場しようとしているアリーシャがおもしろくて好きです。

初演のベルリオーズは若き悩める音楽家で「迷い子」そのものだったので一向に十字路で立ち止まりそうにない再演ベルリオーズがどうも馴染まなかったのですが、東京の後半あたりで今期は「そこに来たのは悪魔 それはちがう 美しいメロディを秘めた 我が友」の方に軸足があり、“人間”であるニコロを認めてくれた人であり十字路で立ち止まった者同士としての対等な側面が強いのかなと思うようになりました。

SCENE8 アルマンド

バッチーニが「パガニーニは酒や麻薬では死なない。音楽に殺されるんだ」と言うときに親指で自分の首を切るジェスチャーするのが好きです。常人に比べてそれが近い代わりに得体は知れているからなのか死に対してある種のフランクさがあり、仕草としては粗野で、多少は武勇伝を自慢するような感じ。

満たせ耳をのトランペットが電子音なのは残念でしたが、M32 Prayer Of RageのホルンソロがEWIになったのは元管楽器吹きとしてはものすごく安心感がありました。初演でミストーンがあった訳では全くないので奏者の方には大変失礼で申し訳ないのですが、あの静けさの中のホルンソロはさすがにヒリヒリしすぎて、アルマンドの歌を聴いているどころではなくなってしまうのでEWIになっていて良かったです。

初演時には歌はトイマンド・芝居はヤママンドと言われていましたが、再演では歌はヤママンド・芝居はハタマンド。全体的に歌のレベルが上がっている再演のキャスティングの中でも初演からの圧倒的な進化を感じられるのは凄まじいことでヤママンドこそ悪魔と契約した並みです。ハタマンドはあの枯れた細い声が「この老いぼれ」に相応しく真に迫っていて、その怒りは天に届くほど高く鳴ることも神の音楽をかき消すほど響くことも無かったとしても、却って“ただの人”の声として強く求心するエネルギーがあるように感じて、素晴らしかったです。

SCENE9 最後のカデンツァ

2幕後半、パガニーニがアーシャやアルマンド、ベルリオーズに悪魔と契約したことを告白しているのはキリスト教的な“罪の告白”とも重なって見えます。目を背けてきた契約や残りの曲数と向き合うことは“悔い改め”の始まりであり、ここに“償い”が加われば赦しを得ることができるはずです。償いと言えば身代わりの償いですが、ベルリオーズもアーシャも悪魔と契約させずに守って道を示し、自らは「地獄へ落ちて行こうか」と悪魔とともに去ったことはそれと認められるのでしょうか。

ケンティーニはアーシャと同じ高さで同じ十字路を見ているので「十字路は幻だ」とすぐ隣から強く背中を押してくれるあたたさがあって、だから彼が舞台に上がっていくのを観ると、さっきまで繋いでいた手を急に離されてしまったような寂しさが募ります。

バッチーニは、アーシャに「楽屋猫、楽しかった!」と言いながら気持ちはもうすっかり最後の1曲に向かっているように爽やかで凛として、セットの2階がアーシャが上がる舞台ではないようにバッチーニは平舞台にいるべき人ではないことを実感させられるような超然とした姿にいつも泣いてしまいます。

「イタリア人は食べるパンがなくても歌うんだ」と言うのは母の教えでもあり、イタリア人という彼自身のルーツへの誇りでもあります。彼がルーツを誇ったのはこれが初めてで、演奏の技術力を誇るでもなく親が悪魔を産んだと言われることに引け目を感じるでもなく、自分がどこから来たのか誰の息子なのか、自分自身の存在を肯定できたのだと思っています。

悪魔は「命で奏でよ」、命を消費して音楽を生み出せと命じましたが、アーシャは奏でるほど命が減るならそれは「音楽じゃなくて命じゃない!」と指摘し、パガニーニは命の光を持たない悪魔の音楽が、命そのものであるパガニーニの音楽に勝てるわけがないことに気が付くと、「命を奏でる」「命の音楽の前に ひれ伏せ 魔性の音楽」と勝利宣言をします。

my楽の日、バッチーニが「地獄に落ちて行こうか」と言ってアムドゥスキアスに向けた弓がその胸を刺していて、とうとう切っ先が届いたような気がしました。アグレッシブな再演版のひとつの到達点のように思っています。

SCENE10 アンコーラ

帰宅してアルマンドの「またギャンブルでございますか」に「まあな」と応えるのは、その前の場面での「アーシャ、君がヒントをくれた。このギャンブルの戦い方を」を指していると思うのですが、再演でこの台詞が「このゲームの戦い方を」に変更されているので対応しなくなってしまっている気がします。またギャンブルで負けてきたのですか、というニュアンスのアルマンドに対して何を明かすでもなく満足気な様子のパガニーニは己を誇示したがっていた絶頂期に比べると憑き物が落ちたようで、このときの「いつ終わってもいい命だと思っていた」にも感慨が滲んでいるように感じてしみじみとする場面です。

アムドゥスキアスがパガニーニの頭にキスをするようになったのは私の観測範囲内では5/6ソワレのケンティーニ回が最初なのですが、World Knowsで心からアムドゥスキアスを信じて頼っているようなスイートな様子のケンティーニはさぞ庇護欲を唆る対象だっただろうと思わされて、とても納得したのを覚えています。

5/18ソワレで本当に満ち足りて安らいだ様子でヴァイオリンを抱いていたバッチーニが事切れてがくんと首が落ちたのを、アムドゥスキアスが追うように手を伸ばしていたのが、初演から通して初めてパガニーニが悪魔から逃げおおせて天国へ行けたのかもしれないと思えた回でした。今までの解釈をひっくり返される形になったのですが、この回がmy楽で本当に良かったと思っています。

ニコロを堕落させたことを悔いて去ったエリザですが、「大切なことはただ一つ 貴方以外の一体誰が こんな偉業を成し得たの」と最後まで成果主義を貫いているのが好きです。ニコロが一定の成果をあげることはエリザがその“魔性”で以て不当に引き上げた(あるいは堕落させた)訳ではないという証明で、エリザにとってもある種の救いになる気がしています。

ラストシーンにはタイトルロールであるパガニーニも香盤上の主演であるアムドゥスキアスもおらず、この物語を私たちへ引き継ぎ、歌い継がれていくことを示すようなエンディングになっているのも大好きで、劇場内だけで完結せず日常や将来に繋がっていく感覚は名作としての条件のひとつなのではないかなと思います。

初演から数えるとちょうど10回観劇しましたが、演出もキャストも劇場も変わりその時々で感じることは様々あれども、続くほど命が削られる恐ろしいアンコールを死してなお続く輝かしいアンコールに転換する鮮やかな脚本の力とパガニーニを賞賛する愛の力が、作品を支える根幹となっていることを益々感じるようになり幸せな再演期間でした。

バッチーニ

藤沢作品たる温かみと、弓毛をブチブチに切りながら躍動する苛烈さを併せ持ったバッチーニは、ちょっとした台詞のやりとりの機微やマイムの的確さなど、とにかく舞台技術の巧みさが際立っていました。手足が長く踊りのラインとリズムが正確なので、「血の契約」以降の覚醒してダンサブルな場面の方がいきいきとしていて本来の姿という感じがしています。初演から野心家のイメージがありましたが、再演の後半では素朴さが主軸かつ粗野で等身大な感じがするようになりました。

再演版の軸になったのは間違いなくバッチーニで、個人的には初演はミズニーニ・再演はケンティーニが刺さっていたはずなのに観れば観るほどバッチーニが良くて、結局今では1番バッチーニが好きな気がします。

ケンティーニ

ケンティーニはまず単純に、その歌唱力をもってCROSS ROADの曲の良さを再認識させてくださった点に心から謝辞を述べたいです。

舌打ちをしたり関節を鳴らしたりする実在性の高い振る舞いと舞台俳優らしく激的に感情を出し入れする様のバランスが面白い人だなと思います。バッチーニに比べると苦悩が深く“陰”のイメージのケンティーニですが、後半では簡単に「若き虚栄心」に呑まれてしまう情熱と愚直さでそのまま家族や周りの人々を愛してもいるのが天才ゆえの幼児性にも見えて、却って“天才の苦悩”の話のようになっていたのが興味深く、物語の新たな側面を見せてくれた新パガニーニでした。

悪魔の解釈について

初演と比べて「悪魔」という存在の解釈が少し変わっていると言うか、より解釈の幅を広げても成立するように再構築されている気がします。

元々、悪魔がなにをモチベーションにパガニーニを求めているのか、悪魔にとっての“美しさ”とは何か、“悪魔と契約”するとはどういうことか、そういったディテールは作中では明言されていません。そのために初演時には、悪魔が「破壊と破滅を誘い、悪を欲する者」であると分かり、契約内容も大方察している層にはとても刺さっているけれど、そうでない層は置いてきぼりになっている人もいる印象がありました。

唯一絶対の神を持つ人々にとって悪魔とは絶対悪であって、悪魔が良しとすることは神に背くこと、神を崇めず父母を敬わず傲慢で強欲で淫靡であるということです。教会に行かず、実家に帰らず、音楽家の頂点を自称し、法外な演奏料を徴収し、ナポレオンの妹と怪しい関係にあるパガニーニが「悪魔」と言われるのも頷けますし、これはアムドゥスキアスが母を亡くし消沈するパガニーニを「美しくない」と評したことともつながります。人間ですら生まれながらに原罪を持ち赦しを得るために努力しなければならない世界観の上では、悪魔は悪魔であ(り悔い改めを放棄してい)るだけでも悪と言えます。

しかし当然こんな前提は多くの日本人にはないわけで、この説明を追加するでもなく新曲:満たせ耳をで「悪魔も神が作りしもの」とだけ歌うことで、寧ろ悪魔が絶対悪ではない印象を強めている感じがしています。神に「堕とされた」という悪魔の姿は、人に「悪魔のヴァイオリニスト」と後ろ指を指されるパガニーニと重なっても見え、わざと憐れっぽく演出しているのだとしたらなかなかに悪魔的です。

面白かったのは、先日公開された博多座での大千秋楽のカーテンコールで中川さんがアムドゥスキアスとパガニーニを「対の存在」と仰っていたこと。私は先述の通り絶対悪のものとして完全に切り離して観ていたことに気付かされたというか、確かに悪魔と人、芸術家と作品、契約者甲と乙、対になる要素の多い2役だったなと初めて気が付きました。

パガニーニのイカサマ

パガニーニが最後に行った「イカサマ」=「契約違反」だと捉えられていることが多いように思うのですが、実は初演ではパガニーニに「私はお前に捧げて弾いている。契約違反はしていない」「どんな最後ならお前は満足するんだ?」という台詞がありました。アムドゥスキアスが求めた「天才にしか奏でられない名曲100万曲を捧げること」に対して、“捧げる”部分については違反していない事が明言されていた訳なので、少なくとも初演時には“天才にしか奏でられない名曲”の部分にイカサマがあったはずなのです。曲が自分に捧げられていないときは「契約違反だ」と断定するアムドゥスキアスが最後の1曲については「こんな最後は認めない」とお気持ち表明に留めた点も、契約違反はしていないことを補強していると思います。

“天才にしか奏でられない名曲”を求める悪魔に“天才にしか奏でられない超絶技巧編曲版のCasa Nostalgia”で答えたパガニーニに対して、名曲とは「人を魅了し狂わせる」類の音楽であって母や家庭の愛を歌うCasa Nostalgiaは認めないと反発しますが、バッハやハイドン、モーツァルトなどによる教会音楽にも数々の名曲があることは悪魔にも、むしろ音楽の悪魔だからこそ否定できないのでしょうし、所詮は好みの違い程度であって名曲は名曲。パガニーニが「人も悪魔も神も 音楽の奴隷なんだ」と言うのはそのことも含んでいるのかなと思っています。何となくパガニーニの“厄介ファン”のように描かれていた初演の悪魔はここで所謂“解釈違い”を起こすわけですね、、、。

再演では「お前に捧げて弾いている」と明言されなくなったために、“名曲として認められない”解釈と“悪魔に捧げていない”解釈がどちらも可能になり、また契約違反をしていないことが明言されなくなったことで契約の不成立、つまりパガニーニの魂が悪魔に奪われない可能性すら浮上してきたように思います。実際、再演ではパガニーニが息を引き取った後、「十字路の悪魔が見えない真っ直ぐな男」であるアルマンドが、アンコーラを歌うテレーザにはっと気付いたような仕草をしていて、パガニーニを迎えに来た天使を見ているようでした。

再演では救いの可能性をより強く感じたことと、解釈の種類が多いだけに人それぞれに(あるいはダブルキャストそれぞれ、公演日それぞれに)飲み込めるようになり、初演が刺さっていた層以外の(主にミュージカルが好きな)多くの人にも届くようになったのかなと感じています。

アンコーラ

初演との比較も含め長々と書いてきましたが、大好きな作品がまた観られたこと、この作品がより多くの人の目に触れて愛されたこと、キャストの方がこの役をやりたかったとか大切な作品だと折に触れて言ってくださること、本当に嬉しくて嬉しくて初演のファンで再演を願い続けた1人としてとても幸せな再演でした。

きっとこれから先もこの作品が続いていくのだろうと思えたことは、円盤どころかゲネ映像もカテコ映像もなく再演するかも分からないまま(むしろ絶対にないと思いながら)再演を願っていた2年間の何よりの報いです。気持ちが重すぎて初演の厄介ファンだったのに再演も好きになれて嬉しかったし有難かったです。

再々演もみんな大好き白石Pがきっと叶えてくださると信じているので、今は白石Pのご健康とご多幸、円盤と音源の発売、試演会キャストの本役キャスティング、初演の資料映像を観る権利、ミズニーニのカムバックなどを願っています。全部叶いますように!再演本当にありがとうございました!!

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