くじら〔くぢら〕【鯨】(しりとり小説第4話)
クジラ目の哺乳類の総称。世界の海洋や一部の大河川に分布。肺呼吸する際、吐く息とともに付近の水を吹き上げ、潮吹きとよばれる。生息数が激減したため国際条約で保護される。
「大きいものは強い」
これは、ある程度普遍性のある定義だと私は考える。
かくいう私がその典型だ。
私は、世の中のあらゆる生物の中でも「身体が大きい」部類のようだ。その大きさゆえに、獰猛で鋭い歯をもつ"さめ"のような生き物も私には近づこうとしない。
そうやってこの広大な海を悠々と泳ぎながら、いくつもの生命の誕生と死を見届けてきた。
だが、そんな私の生涯も、まもなく終焉を迎えようとしている。
最近は、自身の衰えを強く感じる。呼吸が難しくなってきているのだ。
基本的に群れをなすことのない私は、繁殖期を除き、その人生の大半を単独で過ごした。
そこに違和感を感じることはほとんどなかったものの、あえて「退屈か?」と聞かれれば、退屈ではあったと思う。
時折、日常を揺るがす出来事も起こったが、それは即ち、「飢餓」や「”しゃち”の襲撃」、「子孫の死」「生活環境の急激な変化」など、大抵好ましいものではなかった。
だからこそ私は、退屈であることこそ私が生きる意味なのだと、そう考えてきた。
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だが、ほんのわずかな期間ではあったが、興味深い「非日常」を経験することがあった。
私が人生の半分くらいを経験した頃であろうか。
ある朝、私は突然方向感覚を失い、陸に乗り上げ生死の境を彷徨ったことがある。
原因など私にもわからない。それは例えば、心臓発作による突然の死を、当の本人すら予想できないのと同じなのだ。
急な呼吸困難に己の死を覚悟した頃、”ひと”の手によって、私は海中に戻された。
はじめは、陸地にいた2〜3人で私を海へ戻そうとしたが、身体の大きな私はびくともしない。
結局、近くの同胞をかき集め、30人ほどで私を転がすようにして、ようやく私の身体は浮力を得ることができた。
乗り上げた陸地が小さく見えるか見えないか、くらいの場所まで泳ぐと、私は静かに呼吸を整えた。幸い、"ひと"の群が私を襲撃してくる気配はなかった。
ゆっくり呼吸を繰り返すうち、一時的に失われた方向感覚を取り戻すことには成功した。
だが、体力の回復には時間がかかりそうだった。
そんな時、目の前に1人の”ひと”が現れた。
どうやら、海に戻った私を追いかけてきたらしい。
襲撃を懸念したが、到底"ひと"1人で私を襲撃するとは考えにくい。あたりを見回したが、私を攻撃しうる別の存在も、確認できなかった。
彼は、私に敵意がないことを示すかのように、敢えて私の視界の正面からゆっくり私に近づいてきた。
そのまま私の頭に優しく触れ、それから顔、背中、腹、鰭、尾を確かめるように触れた。
私が拒絶しなかったからか、挙句にはペニスを握ってきた。
あまり気持ちのいいものではなかったが、私が少しでも抵抗すれば、体の小さな"ひと"は、たちまち死んでしまうだろう。
補食や保身の目的もなく生物を殺す意味はない。そんなことに体力を使いたくはない。
仕方なく、私はその場をじっとしていた。
ひととおり私の身体を観察したあと、彼は再び私の正面へと現れた。
”ひと”の寿命がどのくらいかは分からなかったが、彼の顔からは、活気と衰弱を半分ずつ感じた。
恐らく私と同じく、ちょうど人生の後半に差し掛かった頃なのだろう。
~~~~~~~~~
その日から彼は、あたりが明るくなると毎日"ふね"を使って私を捜索した。
はじめは少し警戒もしたが、しばらく接触を重ねるうちに、彼には私への攻撃の意思が一切ないことを確信した。
襲撃を仕掛けるにしては、装備や身構えがあまりに無防備なのがその証拠だ。
彼は毎日飽きることもなく、明け方から夕方まで私を観察し続けた。
私も、狩猟の時間を除いて基本的に退屈をしていたから、彼をじっくり観察するのは悪いものではなかった。
光の明け暮れを10回ほど繰り返した頃には、朝方"ふね"が接近してくると、私から彼を迎えに行くようになった。
彼は、"ふね"に自ら寄ってくる私を見るなり、ひどく大きな声を出していた。
~~~~~~~~~
私は、日々狩猟と繁殖の場を求めて広大な海を転々としている。特定の場所にいる期間はそれほど長くはない。
彼と出会ったあの海に戻ってきた朝、再び彼の乗る"ふね"が私の元へやってきた。
彼はその時を心待ちにしていたらしい。ひょっとすると、私がその海を離れていた間もずっと、私を探していたのかもしれない。
彼は私に寄ってくると嬉しそうに頭に触れ、それから顔、背中、腹、鰭、尾に触れ、最後にペニスを握ってきた。
翌朝から、彼は私と接触をするたびに、新しく道具を持ってくるようになった。
ある時は、「音を発するもの」
ある時は、「水流を作るもの」
ある時は、「光を発するもの」
はじめは、"ひと"という陸上生物がいかにユニークな道具を持っているか、それを伝えたいのだと思っていた。
が、しばらくして気が付いた。
彼は、私とコミュニケーションを取ろうとしているのだ。
気がついたのは、音、水流、光…情報の発信方法は違えど、それらには共通して、意図的なリズムがあったからだ。
たとえば、
彼が私に触れたり、あるいは私を指さす時、彼は必ず
-・-・・ ・・-・-
こんなリズムで光や音を放った。
また、今度は彼が彼自身を触れた時には、
-・・ ・・ ・・・-
と、信号を放った。
恐らく前者は、「彼」を指す信号であり、後者は、「私」のことを指す信号なのだろう。
彼の発する信号の法則と、それが示す意味を理解できるようになった頃、彼は信号に加えて、何か模様の書かれたパネルを持ち出すようになった。
たとえば、
-・-・・ ・・-・-
という信号には、"きみ"というパネル
・-・・ ・・ ・・・-
には、"ぼく"というパネル、という具合だ。
同じような模様が、彼が乗る"ふね"の側面にも描かれていた。
しばらく経験を重ねるうちに、彼の発する信号と、彼の見せる模様("ことば"というらしい)には一定の関係性があることがわかった。
そうやって私は、"かお"、"せなか"、"はら"、"ひれ"、"お"、"ぺにす"をはじめ、"うみ"、"りく"、"ひと"、"くじら"、"えもの"、"ふね"、"あかるい"、"くらい"…など、身の回りのあらゆる信号を覚えていった。
彼は自身のことを”こういち"と名乗っていた。
~~~~~~~~~
"こういち"と接触するようになってから5度目の"なつ"が来た。
("こういち"と接触する時期を、"ひと"は"なつ"と呼ぶらしい)
この頃には、彼が私に信号を伝えるだけでなく、私から彼に信号を返す方法を心得ていた。
具体的には、彼が私に対して、光や音でリズムを伝えるように、私は、私自身の呼吸でリズムを伝えた。
("こういち"は私の呼吸を、わたしから放出される海水のリズムから視覚的に理解することができた。)
そうやって、多くの信号を伝え合うことができるようになった"こういち"と私だったが、ある日から、彼の示す新しい信号の意味を解釈する事が難しくなっていた。
それは決して、私の信号感知能力の衰えや、彼の通信手段の劣化が原因ではない。その証拠に、彼が伝える信号を"こころ"という言葉に変換する事はできた。
しかし、肝心なその言葉の意味を解釈できないでいた。
彼もまた、この信号の意味を伝えることに苦労しているようだった。
たとえば、"こころ"という信号を発するとき、
時には大きな声をあげ、時には顔を下へ向けて動かなくなり、また時には私の身体に彼の身体を寄せ、ある時は腰をくねらせ、ある時は私のペニスを握った。
だが、それらは既に"おと"や"こし"、"ぺにす"という言葉で理解していたし、これらの言葉から総合的に連想される概念を予想することも出来なかった。
だが、彼は諦めることはなかった。
来る日も来る日も"こころ"についてのあらゆる伝達を試みていた。
結果、私にはそれらが「形のないもの」である、ということまでは予想がついていた。
そして、それを理解できたとき、私と彼との意思疎通は飛躍的に成長するであろうことも。
そんな折、"こういち"は私に、"ぼく、うみ、いっしょに、まわる"と伝えてきた。
なるほど、それも退屈がしのげて悪くないなと思った。だが、普段は陸上で生活をする"ひと"は、海での長期生活には適合していない。無論、この旅から生きて帰る保証もないだろう。
しかし、彼の表情からは、不思議とそれを感じさせない「なにか」があった。私は彼に、"うん"と伝えた。
翌朝、彼は普段より少し大きな"ふね"に乗ってやってきた。"ふね"の上には見慣れない道具や食糧がいくつか確認できた。
私は彼を案内するように、"なつ"の海を離れていった。
~~~~~~~~~
彼と海の旅を始めてからしばらくした頃、私はつがいを見つけ、繁殖活動を行った。
"こういち"とはつがいより長い付き合いで、お互いのことをよく観察し合う仲であったが、繁殖を彼に観察されるのは、不思議とどこか恥ずかしいような、後ろめたいような気分にもなった。
繁殖を終えたあと、彼に、
「これが"こころ"なのか?」と聞いてみた。
すると、彼は「"ちがう"」と答えたが、しばらくして「"すこし""うん"」と返してきた。
やがて、私とつがいの間に子が産まれた。
我々"くじら"を後世に繋いでいく新たな命だ。だが「なぜ命を繋ぐことが大切なのか」と問われると、私にも答えが出せない。
私が我が子に繋ぐものとは、即ち退屈だ。
この一連の退屈に、つがいが経験する産みの痛みや、我々に捕食される小さな命たちに見合うだけの意味があるとは思えずにいたのである。
それでもわたしとつがいは、我が子を大切に育てた。
しばらくすると、"こういち"も我が子と接触するようになった。我が子は、生まれた時から旅を共にしている"こういち"を、すっかり同胞だと思っていた。
"こういち"の英才教育の効果もあり、我が子が自立して捕食や呼吸ができるようになった頃には、すでに、"あなた""わたし"の意味を理解しているようだった。
~~~~~~~~~
そうして我が子が独り立ちを迎え、つがいとの共同生活を終えようとしていた朝。
我が子は、死んだ。
"しゃち"の群れが、迫ってきたのである。
"しゃち"は、体の大きな我々にとって、陸生生物の"ひと"を除いて、唯一脅威となる生物である。1匹1匹は我々より小さいが、"しゃち"は我々と違い、群れで生活する生き物である。"しゃち"は単独で行動する我々を見つけると、群れで襲撃し、捕食するのである。
はじめは、"しゃち"の群れを見て、"ひと"は大きな声をあげていた。
だが、その群れが我が子を襲撃しようとしていることを察知し、すぐに表情を強張らせた。
私はとっさに、"こういち"への襲撃を懸念した。
そして彼の乗る"ふね"に近づく"しゃち"から彼を守りながら、なるべく群れから距離を取るようにした。
"こういち"は「"こども"」と「"つがい"」と繰り返し発信していた。だが、構わず"しゃち"の襲撃から距離を取り続けた。
"しゃち"の群れが離れていくのを確認してから、我が子のいた場所まで戻ると、既に我が子は死んでいた。
まだ体の小さな我が子は、あまり長く呼吸がもたない。それを狙い、"しゃち"の群れが我が子を海底に沈め、窒息死させたのである。
我が子には幾つか噛みつかれた痕があったが、つがいが必死に応戦したのだろう、"しゃち"の群れは我が子の亡骸を置いて姿を消していた。同時に、"つがい"の姿もそこにはいなかった。
私はしばらく、その場をぐるぐると泳いだ。
目の前で起こったのは、あくまで致し方ないことだ。私が毎日殺める小さな命のそれと、何ら違いはない。ごく当たり前の、海の日常である。
だが、私の中に、今まで経験したことのない、「形のないもの」が浮遊していることに気がついた。私は"こういち"に近づき、「これが"こころ"なのか?」と尋ねた。"こういち"はしばらくじっと考えたあと、「"うん"」と答えた。
翌朝から、"こういち"は「"りく"もどる"」と発した。
"こういち"は、私が"こういち"を守ったせいで、結果的に我が子が死んだことに責任を感じているのかもしれない。
私は彼と離れることで再び退屈に戻ってしまうと考えたが、"こういち"の申し出には、「"うん"」と答えた。
~~~~~~~~~
再び"なつ"がやってきた。
だが、いつもの海に"こういち"が来ることはなかった。
あくる日もあくる日も、そしてまた季節を超えて"なつ"の海に戻ってきた日も、"こういち"の姿は見当たらなかった。
私はふと、"こういち"と出逢った当時の彼と同じように、毎日"こういち"と接触するあの朝を心待ちにしていることに気がついた。
「これも"こころ"なのか?」と尋ねてみたかったが、私の発する信号を受け取るものは、その海には見当たらなかった。
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そうしていくつもの季節を超えたある"なつ"のある朝、私は久方ぶりに、"こういち"と接触した。
"こういち"の乗る"ふね"は、あの時と変わらぬ振動を響かせて、その海にやってくる。時間が経っても忘れることはない。もともと私は知能の高い生物なのである。
だが、"ふね"から降りてきた"ひと"は、"こういち"ではなかった。代わりに、"こういち"が発する信号と同じものを心得ていた。
その"ひと"は、私に敵意がないことを示すかのように、敢えて私の視界の正面からゆっくり私に近づき、「"こういち""ふね""うえ"」と信号を送った。
私は"ふね"にぎりぎりまで体を寄せ、水面から顔を出した。すると、"ふね"の中には、"こういち"の姿があった。"こういち"はすっかり年老いていた。もう、海を泳ぐこともできないのだろう。
私が呼吸で「"こういち"」と発すると、"こういち"は、か弱くも大きな声を出し、私の顔に優しく触れた。
やがて、"こういち"は、「"ぼく""いのち""ちょっと""きみ""せっしょく""さいご"」と信号を送った。
私は、久しく接触できなかった"こういち"との再会に、心臓の鼓動が高鳴るような「形のないもの」と、同時に、"こういち"の発する信号に、どこか、我が子が死んだ時と似たような「形のないもの」を感じた。
「これも"こころ"なのか?」と尋ねると、"こういち"は「"うん"」と答えた。
最後に"こういち"は、今まで使ったことのない信号を発した。
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それ以来、"こういち"の船が"なつ"の海に姿を表すことはなかった。
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「長い退屈」だった私の生涯も、ようやく終焉を迎えようとしている。
最近は、自身の衰えを強く感じる。呼吸が難しくなってきているのだ。
ふと、"こういち"が最後に発した信号のことを思い出した。あれから随分と長い時間が経過したが、どれだけ考えても、その信号の意味を解釈できないでいた。
だが、"こころ"を教えてくれた"こういち"が残した最後の言葉は、きっと素晴らしいものなのだろうと、そう確信していた。
ほとんどの時間、群れをなすことなかった私は、つがいや我が子、そして"こういち"と過ごしたほんのわずかな時期を除き、単独で過ごした。
すっかり衰弱しきった私ではあるが、この大きな身体にわざわざ近づこうとする生物なんて滅多にいない。
そうやって私は、この広大な海を悠々と泳ぎながら、いくつもの生命の誕生と死を見届けてきた。
だが、もう間も無く、そんな広大な海の屍となる私を、今度はいくつもの生命が見届けることになるだろう。やがて私は海の底に沈み、長い時間をかけ、ゆっくりと「海の養分」になっていく。小さな生物達よ。私でよければ、捕食するといい。
"こういち"が遺した最後の信号を、私も最後に発してみることにする。
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"こういち"が亡き今、この言葉の意味を確認する手段はこの海のどこにもない。
だが、今なら少しだけ、その「"こころ"」の声が指し示す意味が、わかる気がするよ。
深海の底へと沈みゆく私の周りを、海の生物たちが泳ぎ去ってゆく。その生命の息吹から伝わる振動は、偶然だろうか、「"うん"」と聞こえた気がした。
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