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らく だ 【駱駝】(しりとり小説第5話)


肩高2メートル 内外ほどの大形草食獣。背のこぶに養分を貯蔵し、鼻孔を閉じることができる。足の裏は丸く広がった肉質部があって砂の上を歩くのに適し、長時間水を飲まずにいられるなど、砂漠の生活によく適応した体をもつ。家畜化の歴史は古く、古代より「砂漠の船」とよばれて乗用・運搬用に使われ、毛・皮・肉・乳も利用された。


「君たち人間は、驚くほど例外なく、病を持っているね。それは、人によりフィジカルであり、メンタルである、という違いはあるかもしれない。もしくはその両方が課せられている場合もある。ひょっとすると、両方を持ち合わせている人が一番多いのかもしれない。」

人気のない無人駅のホームで列車を待っていた私は、私の隣に駱駝が腰掛けていることにしばらくの間、気がつかなかった。
厳密にいえば、それが本当に「しばらくの間」だったのかもわからない。
少なくとも私は、駱駝が私に話しかけてくるまではその存在に気がつかなかった。だから、駱駝がここに腰掛けてから、私に話しかけてくるまでの間も、実はそこまで大した時間ではなかったのかもしれない。

「駱駝さん、、と、お呼びすればよいでしょうか? ええ、本当に、私も同じことをよく考えます。」私は答えた。
「実は私も今、医者に通っておりまして——と言っても、あまり生活には支障がないものだと思っていた、簡単な心の、あるいは頭の障害です——一か月に一度ほど、漢方薬を処方されます。毎食前に1回、一日三袋。もっとも、面倒くさくなってほとんど飲むことをさぼってしまっているのですが、時折、それらしき症状が私の心を、あるいは頭を蝕むとき、これは漢方薬の服用を怠らなければ防げたものなのだろうか?…と少しだけ後悔します。」
「君は素直で、そして馬鹿だ」駱駝は言った。

不思議とその時、私は駱駝と会話をしていることに驚いていなかった。
先述の通りのそれのせいで、ひどく体力を消耗していた当時の私は、いちいち目の前の事態に意識を差し出すほどの余裕もなかったのだと思う。その証拠に私は、なるべく世の中の情報という情報から距離を置くべく、平日の真昼間に誰もいない場所へと列車を乗り継いでいた。

ただ、奇妙だとは思った。具体的には、二つの理由で。

①古びた時刻表によれば、列車は、昼間の時間帯には二時間に一度ほどしかこの駅を通らないし、前の列車はつい20分程前に私をおろしたばかりだった。次の列車が来るまで、少なくとも1時間半くらいかかる。なのになぜ、今このタイミングでこの駱駝はホームにやってきたのか?
②仮にもこれが、私が見るファンタジーだったとしよう。なぜ、駱駝なのか。というのも、当時の私にとって、駱駝というのは私の生活にほぼ一切のかかわりを持たなかったため、駱駝という存在が私に何かを伝えるメッセージとはなりえないからだ。

しいて言えば、私が昔交際していた女が時折つけていたイヤリングはラクダをモチーフにしたものだった。それは左右不均一で、片側のラクダはこぶがふたつ、もう片側のラクダはこぶがひとつあり、背中合わせにするとその凹凸がぴったりとはまるようになっていた。彼女曰く、「これは愛する異性同士が、お互いの不足を補いあうことを指しているの」と話していたが、そもそもイヤリングは離れた耳たぶに装着するものだし、例えば彼女がその片方を耳に着けるから、もう片方を私につけてほしいと頼まれたこともなかった。それは、イヤリングとしての本来の役割を果たす限りは絶対に補いあうことのない、美しいまでの矛盾を体現したものだった。ほどなくして彼女と私は別れた。今思えば、それは私への皮肉だったのかもしれない。

「駱駝さん、あなたはどこへ?」私は尋ねた。
「君と大して変わりはしないよ。」駱駝は答えた。「きっと、君と同じような何かに蝕まれ、何かから逃避しているんだと思う。」
「それはお気の毒です。」
「君は素直で、そして馬鹿だ」駱駝は再び私にそう言った。私は馬であり、鹿であるようだった。

それから少しの間、空白の時間が流れた。
その時間は、会話というものがなくなるとまさに「空白」というにふさわしい四次元だった。
それが日本の中のどこかであることは間違いないし、おおよその場所はもちろん把握している。所々で風が木々を揺らす音がするし、意識を傾ければ鳥のさえずりが聞こえるときもある。そして、ごくまれに、遠くで車が通り過ぎる音もするから、やはりここにも、いくつかの情報が存在する。
だけど、それらは、仮に意識を集中させたとして、私の精神を浸蝕するようなネガティブな情報ではなかった。
私が逃避していたのは、耳をふさぎたくなるような、あるいは、実際には聞こえもしないのに、心配性な私が勝手に作り出すネガティブな情報だ。そしてそれは大抵、人々がデジタルな環境下で集まるなかで生まれるものだった。

「ねぇ駱駝さん」しばらく空白を満喫したあと、そこに存在する唯一の違和感(決してネガティブなものではないが、私の空白を時々横切る、ハエのようなもの)に向かって、私は話しかけた。「駱駝さんは、人間を恨んでいるの?」
「そうだな、恨んでいる。」ほとんど考慮時間を使わず、駱駝はそう答えた。
「厳密にいえば、人間の言葉や概念を理解できてしまう、私の能力を恨んでいる。我々駱駝にだって、コミュニティがある。コミュニティがあれば、コミュニケーションがある。コミュニケーションがあれば、対立がある。さらに我々駱駝だって、病気をするし、痛みを感じる。毎日少しずつ、死に近づいている。それは駱駝だけでなく、象や麒麟、猫や烏だって例外ではない。だが、それらによって生じる感覚を、言葉にすることはない。概念化して、特別な病として診断書を書くこともない。それら一つ一つは単なる状況に過ぎないし、誰もが何かしらの形で抱えているものだからだ。だが、人間はそれらを言葉にする。言葉にして、問題化する。医者や学者などと言われる、人間界のインテリジェンスな種族は、日々それを研究することで飯を食っている。それによって命を救えると信じている。本当は、それらを概念化し、病と認定すること自体が、人の命を死に近づけることだってあるというのに、それを言葉にしないとやっていけないなどと甘いことを言う愚か者ばかりが存在する。そして、そんな愚か者たちが、また医者や学者に飯の種を与える。君たちほど、馬鹿な生物もそういないだろう。それは駱駝である私にとって大して関係のないことであるはずだが、運悪く、私は人間の言葉や精神を心得てしまったため、その様子を見ると胸騒ぎがする。ただ駱駝として生きていればなんとも感じなかったような出来事に対して、なんとも恥ずかしいような、逃げたくなるような感覚を得てしまった。本当に恨めしい。」駱駝の説教は止まらない。
「結果的に、人間は例外なく、病を持っている。きっと、仮に五体不満足に生まれ、なんの迷いや不安もなく、心身を健全に保ったまま生涯をまっとうした人間がいたとして、きっと君たちはその人をまた、何かしらの病として認定するんだろう」最後に駱駝は皮肉な笑顔でそう言い捨てた。

「ええ、本当に、私も同じことをよく考えます。と、いいつつ、私もその飯の種を与えた一人にすぎませんが。」私は答えた。
「なんといえばいいでしょう。とりあえず、ごめんなさいね。私たちは本当に馬鹿な生き物です。今すぐにでも『馬鹿』という言葉を、意味をそのまま『人間』に改名したいくらいです。」
「まぁ、安心してくれ、君は『人間』だが、素直である。少なからず、それなりに世の中を俯瞰している。とびっきりネガティブだがね。だから、そんな君に、少しだけいい体験をさせてあげようか?」

駱駝がぱちんと指を鳴らすと、その瞬間、私の中から、言葉がなくなった。今、この状況を漠然と感じることはできる。だけど、それを形容するいかなる言葉も浮かばなかった。次にもう一度ぱちんと指を鳴らすと、今度はそれがうれしいものなのか、悲しいものなのかもわからなくなった。ただ、おそらく私はその時、母の腹の中にいた時と同じくらい、あるいはそれ以上に幸せな表情をしていたのではないかと思う。
私はその、とびきり「無」に近い世界をふわふわと漂った。そこにはおそらく、道端に生える茸を見て「これは私の胃袋で消化できるかどうか」とか、女を見たときに「セックスがしたい」とか、あるいはネズミを見たときに「あれはセックスをする対象ではない」とか、そのくらいの識別しか存在しないのだろう。すなわち、肌で感じるあらゆる情報に対して、他の動物たちと同じくらいのレベルで物事を捉えるようになっており、そこに特別な感情を持たなくなった、ということである。私はひどく心を病んでいたはずだったが、、、、あれ、心を病むってなんだっけ。

しばらくして、私ははっと目を覚ました。
私は姿勢よく、無人駅のベンチに座っていた。
気がつくと、そこに駱駝はもういなかった。代わりに、一両編成の小さな列車が、私の乗車を待っていた。

途端、私は耐え難い重力のようなものに胃袋が引きちぎられるような感覚を覚えた。
熱中症?いや、それはない、たぶん、私のもつ心の、もしくは頭の病のせいでもない。ちなみに、痛みとも違う感覚だった。
そうか、これが生きるということか。

「おかえりなさい」と、誰かが言った気がした。あるいはそれは、「行ってらっしゃい」だったのかもしれない。
それは、私に診断書を預けた医者の声だった気もするし、ついさっきまで耳にしていた、駱駝の声だった気もする。

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