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大岡裁き「三方一両損」は「二方二両得一方一両損」?

 ご存じの方も多いと思うが、大岡政談のひとつに「三方一両損」という話がある。
 大工の熊五郎が道で三両をなくす。左官の金太郎が拾って熊五郎に届けるが、熊五郎は、「いったんおれのふところを離れた金なんぞ、もうおれのもんじゃねえ」と言い張って受け取らない。
 熊五郎も金太郎も意地っ張りで、しまいには喧嘩になる始末。
 騒ぎの決着は南町奉行大岡越前守の手に委ねられる。天下の名奉行、越前守は次のような裁断を下す。
「三両はこの越前がいったん預かる。これに越前が一両足して四両とし、改めて、その方らの正直に対する褒美として二両ずつ遣わす」
 つまり、熊五郎はもともとは三両あった金が二両になって一両損。
 金太郎は、拾った三両をネコババすれば丸儲けだったのに二両に減り、これも一両損。
 越前守は自腹で一両を出費してやはり一両損。
 で、「三方一両損」というわけである。
 これで大岡裁きは一件落着。この話は落語や講談などで演じられる作り話だが、よくできた話である。

 ところで、この話を別の観点から考えてみる。
 まず熊五郎。三両をなくしてしまい、“すでにないもの”と思ってあきらめていたと仮定すれば、二両が戻ったのだから、「一両損」ではなく「二両得」となる。
 金太郎にしても、三両はもともと自分の金ではないのだから、“得をしそこなった”というだけのことであって“損”ではない。で、これも「二両得」。
 結局、損をしたのは越前守だけで、「二方二両得一方一両損」となる。
 この手の話にはパラドックス、つまり矛盾がつきまとう。矛盾の正体は“捉え方や解釈の仕方の違い”である。これによって、「三方一両損」が「二方二両得一方一両損」になったりする。帳尻が合わないような気もするが、金に限って言えば、どこからどこへ移動しようと合計額は四両であり、帳尻は合う。


 世の中は金や物だけでなりたっているわけではないから面倒なこともある。
 たとえば強盗が百万円奪ったとする。まず、犯人と被害者の間に「一方百万円得一方百万円損」が成立する。
 警察は捜査費の出費がある。捜査費の大元は税金だから、納税者も間接的に被害者となって損。
 一方、盗んだ金を犯人が遣えば、犯人は遣い得となり、遣った先の店は売り上げ増で得。したがって「多方得多方損」となる。関係者の損得勘定は別として、金の流れや計算自体は帳尻が合う。
 だが、合わないものがたくさんある。関係者の心情、社会の規範や道義、犯人への懲罰ほか、金以外のことだ。
 犯人が捕まったとしても、あるいは金を取り戻せたとしても、被害者にとっては得ではなくて当然のこと。騒がされた事実などは明らかにマイナス要因で、物理的精神的な傷痕が厳然として残る。
 犯人が捕まらないとなればなお悲惨だ。誰かが補償してくれるわけでもない。結局“やられ損”となって前述の帳尻が合わなくなる。

 殺人、強盗、誘拐、監禁ほか、事件や事故などはみな帳尻が合わない。詐欺や汚職、商品偽装などは悪事が発覚しにくく、悪者だけがのうのうと「一方的得」をし、“被害者”は「損」をしていることさえ知らないという哀れな事態に陥ることになる。
 そういうことが山ほどあるに違いないと思うが、これでは、世の中の帳尻がますます合わなくなるではないか。

 ところで、一両の身銭を切った越前守はなかなか気っ風がいいと思うが、熊五郎がなくした金が三両ではなく、もしも三百両だったらどうなっていただろうか。いくつものおもしろいストーリー展開が考えられるが、「三方百両損」とならなかったことだけは確かだろう。

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