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U2が影響を与えた音楽②花の83年組――Big Country、The Waterboys、The Alarm


U2が影響を与えた音楽①→

Big Country

スコットランドのバンド。ヴォーカルのスチュアート・アダムソンは元The Skidsでギタリストで、「バグパイクのような音」と形容される独特のプレイスタイルを持つ人物です。The Skidsのの代表曲「The Saints Are Coming」を、後年、U2&Green Dayでカバーして大ヒットしたのは記憶に新しいですね。

そのスチュアートがThe SKidsを脱退して結成したBig Countryは、1983年、リリーホワイトがプロデュースした『The Crossing』でデビューしました。ちなみにこのアルバムは当初はクリス・トーマスがプロデュースしていたのですが、上手くいかなったのでリリーホワイトに交替したというU2の『How to Dismantle an Atomic Bomb』とまったく同じ展開がありました。このアルバムはUKチャートで3位、USチャートで18位、UKでプラチナディスク、USでゴールドディスクに輝く大ヒットとなり、一躍、Big Countryはシーンの最前線に躍り出ました。当時、スチュアートは「世界にロックバンドは4つしかない。U2とSimple Minds、Echo & The Bunnymen、そして俺たちさ」と豪語していたそうですが、それもむべなるかなです。

1983年3月29日、ロンドンのHammersmith Palaisで行われたWarツアーの最終公演のステージに、ボノとスチュアートとThe Alarmのマイク・ピーターズがそろい踏みしたシーンは、UKニューウェーブシーンのハイライトの1つです。

が、その後が続かなかった。リリーホワイトを二度プロデューサーに起用した1984年の『Steeltown』、1985年の『The Seer』まではなんとか踏ん張ったものの、その後、セールスは伸び悩み(それでもUKだけでは売れていた)、90年代に入ると急速にアメリカンロック化していきましたが、1999年の『Driving to Damascus』がセールス的に大惨敗。翌2000年、バンドは解散ツアーを行って解散、そして翌2001年、スチュアートは好きだったハワイのホテルで首吊り自殺しました。43歳でした。

結局、Big CountryはU2やアメリカに接近して自滅したというより(Simple MindsやEcho & The Bunnymenと違って、はまってました)、デビュー曲を超えることができなかったのです。因果です。

デビュー曲において、他のバンドの誰にも真似できない個性である、バグパイプ風のギターに、スチュアートの叫び声という、インパクトの強い武器を持っていた彼らだったが、逆にその個性が首を締めてしまったのだ。彼らの完成されたスタイルには、もはや肉付けを施す余地はなく、セカンドシングルの時点で、「インナ・ビッグ・カントリー」のパーツを目立たないように省略していくしか進むべき道がなかったのである。それ以降、「チャンス」「イースト・オブ・エデン」と、新しいジャンルを切り拓こうと苦心はしてみたものの、思うようなリアクションは得られず、結局「ホエア・ザ・ローズ・イズ・ソーン(邦題:バラの墓標)」、「ルック・アウェイ」のようなデビュー曲の縮小再生産しか、道は残されていなかった。それらの曲は彼らを支持する、世界には届かない閉鎖された世界では、熱狂的に受け入れられたのである。

 

The Waterboys 

スコットランドのバンド。ヴォーカルのマイク・スコットはエディンバラ大学で英文学を学んだインテリ。1984~1985年のThe Unforgettableツアーでは大々的に前座を務めました。そして1985年の「This Is the Sea」はUKでシルバーディスクを獲得して、批評家からも高い評価を受け、U2のフォロワー的扱いをされ、そのサウンドはBig Musicと称されました。

ポストパンク的な鋭角なギター、メロディックなサックス、リズミカルなピアノ、そして流麗なフィドル......。マルチ・トラッキングの限りを尽くして構築した、自己流のウォール・オブ・サウンドが聴き手に与えるクラクラするような感覚は、例えば、満天の星空を眺めた時、或いは、高い山の頂きを麓から眺めた時のそれに近い

ザ・ウォーターボーイズ 『ディス・イズ・ザ・シー』

このままBig Musicを追求すれば、第2のU2になれたかもしれないものの、ストイックなスコットはあくまでも自分の音楽を追求。アイルランドに移住して、1988年にリリースした『Fisherman's Blues』は、U2の「Sunday Bloody Sunday』でヴァイオリンを弾いていたスティーブ・ウイッカムを擁し、ケルトミュージック色の強い内容で、これがUKチャート13位を記録してゴールドディスクを獲得、またUSチャートでも76位を記録しました。
1990年の『Room to Roam』も同じくケルトミュージック色の強い内容で、これも好セールスと高評価を得、その後、ハードロック寄りになったり、ソロになったり、バンドを再結成しながらも、息の長い活動をしています。
2014年にはフジロックで初来日し、翌2015年には初の単独来日公演も実現しました。田中宗一郎氏はそんな彼らを「次のU2になれたのに敢えてそれを拒んだバンド」と評しています。これもまたバンドの一つの在り方でしょう。

The Alarm 

ウェールズのバンド。1983年のU2のWarアメリカ・ツアーで大々的に前座を務め、1984年にリリースした1stアルバム『Declaration』はUKチャートで6位、USチャート50位を記録しました。ディスコグラフィーを見れば分かるとおり、U2と同じく、恐らくその田舎臭さゆえ、アメリカと相性のいいバンドだったのです――が、あまりにもU2に似た音楽性ゆえ、U2のフォロワーどころかU2(とThe Clash)のコピーバンド扱いされ、バンドを悩ますことになります。マイク・ピーターズのマレッドヘアもボノと同じです。

ということで、1989年、バンドはトニー・ヴィスコンティをプロデューサーに起用し、起死回生の一作4thアルバム『Change』をリリースします。その内容は全編ウェールズ賛歌、翌年には全編ウェールズ語で歌い直した『NEWID』もリリースし高い評価を得ました。
アイルランドを離れて世界に打って出たU2に対して、The Alarmはあくまでも地元に拘ることにより、脱U2化を果たしたのです。バンドは1991年に一旦解散しますが、その理由はギタリストがアメリカンロックに接近しすぎたこと(ニール・ヤングの「Rockin' In The Free World 」をカバーしている)をマイクが嫌ったためと伝えられていますが、それもむべなるかなです。

その後バンドはメンバーを変えて再結成しましたが、全盛期とは比べものにならないほどその活動は地味です。地元から飛び立って世界的バンドになったU2と、地元に拘ってローカルバンドと化したThe Alarm――が、『Songs Of Innocence』でバンドの終焉を予感させたU2に対して、The Alarmはロックに不可欠な熱気をまだ失っていないのは、なんとも皮肉です。

U2が影響を与えた音楽③


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