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「青春18×2ー日本漫車流浪記ー」レビュー(その2)~紀行エッセイと映画・2つの「青春18×2」~

※ネタバレしかありませんので、映画をご覧になってからお読みください。

■ジミーの旅の意味

それに対し、ジミーの旅の意味は、今ひとつ曖昧なままだ。
原作のジミーには仕事があり、元々予定していた友人との日本旅行のついでで始めたジミーのひとり旅は青春の甘酸っぱい記憶を辿るための感傷的な旅にしかなっていないので、映画ではジミーが自分で立ち上げた会社を追われ、全てを失った設定に変更されている。
しかし、脚本が完成する直前まで、ジミーは原作どおりアミの死を知らずに旅に出る設定だったと、脚本を手がけた藤井監督がインタビューで答えている。
ジミーがアミの死を知らずに旅に出たとしても、そのこと自体は原作どおりだし、原作のままでも映画の物語として十分成立するのだが、藤井監督はこの点が腑に落ちず、脚本完成直前でジミーがアミの死を知って旅に出た設定に変更している。
この変更によって、ジミーの旅の意味がガラッと変わり、この映画で監督が言いたかったことが明確になったのは間違いないが、この設定を変更するヒントは、原作の中にあったのではないか。
 
原作の中でジミーは、アミの母親からアミが既に亡くなっていることを初めて知らされる(そのことは、エッセイの最後まで読者に伏せられている)。
この時点を境に、旅を描くトーンがかなり変わる。
原作では、アミの実家に立ち寄った後のジミーは気分が落ち込みがちになり、気持ちの整理が付かない状態になっている。
東京に戻る予定であることに変わりないが、甲府から日暮里経由で東京に戻る予定なのに、なぜか途中の八王子から八高線に乗り、川越と大宮を経由するという映画のジミー並のとんでもない遠回りをしている(普通なら、そのまま中央線で山手線経由か、せめて武蔵野線経由でしょうよ)。
エッセイの途中では、この行動に違和感しかないのだが、結末を知った後だと、アミの死を知った動揺とアミの墓のある日暮里に行くかどうか逡巡ゆえの行動だと納得がいく。
 
映画でも、ジミーがなぜ松本経由の遠回りのルートなのか違和感を持った人が多い(自分もそう)が、アミの故郷の設定(原作は秋田県由利本荘市だが、映画では福島県只見町へ変更されている)は違うものの、遠回りしてアミに会いに行くのは、原作と同じだったのだ。
ちなみに、現実のジミーは、帰り道で松本を経由しているが、これは単に富士山が見たかったからという理由で甲府方面に向かう途中で立ち寄っただけだが、秋田から富士山が見えるところまで移動するにしても、秋田から日本海沿いに糸魚川まで行っているので、ここもなかなかの遠回りになっている。
なお、原作者のジミーも只見線の乗ろうとしている(待ち時間が長すぎて諦めて乗車はしていない)が、原作の紀行エッセイが書かれた2014年時点でも台湾における只見線の認知度は相当なものだったことが伺える。
アミの実家の設定を只見に変更しているのは、台湾での認知度も考えてのことだろうか。
 
映画の中のジミーはアミの死を知った上で「アミへ会いに行く旅」を始めている。
旅の途中で逡巡は感じられるものの、アミの故郷が見てみたいという思いつき、興味本位で旅を始めて、実際にアミの故郷に着いてからアミにあったらどうしようとか考えている原作者のジミーとは、旅に出る覚悟がそもそも違いすぎる。
 
映画を見終わった後、ジミーが旅に出た理由、その意味を考えていた。
もし、映画とは違って、ジミーがアミの死を知らずに旅に出たとしたなら、この旅はジミーにとってどんな意味があるだろう。
現実ならば、そういうこともあるかもれないと思える出来事、感情が原作にはあった。
人間は、理屈だけでは動かない。
思いつき、興味本位、そのときの感情で行動する、あるいは特に理由なんて言うものはなく「なんとくなく」行動していることも現実にはいくらでもある。
ただ、それだけでは物語は成り立たない。
見ている人の心に響かせるためには、相応の「理由」が必要だ。
原作者のジミーの旅は、現実にはそういうこともあるかもねとは思うことはあるかもしれないが、それをそのまま映画に持ち込んだとしても、観客に心理的な同調を持ってもらえるかというとおそらく難しいだろう。
その後の現実離れした展開も相まって、結果として物語の辻褄合わせ(ジミーが旅に出ないと物語が始まらない)になってしまい、それが原作どおりの事実だとしても、映画というフィクションとしてのリアリティーを欠くことになっただろう。
 
現実のアミの実家にあるあたりに旅行したことが何回かあるが、そもそも道を尋ねようとしても時間帯によっては人がほとんど歩いていないので、道を尋ねようがないような田舎町である。
そんな土地に行って、アミの実家の場所を知っている人に出会い、ご親切にアミの実家へ案内してくれた上に、頼みもしないのにアミの実家をノックしてくれる確率は、「ありえない」といわれるほどではないまでも、相当低いだろう。
アミの母親が一般的には仕事を持っていないだろう年齢になっているとはいえ(アミが生きていれば24+28=42歳、その母親なら70歳は過ぎているだろうか)、そのときにたまたま家にいて、ジミーを見るなり「あんたアミの台湾のボーイフレンドなのかい?」なんで言われる可能性は宝くじの高額当選確率より低いはずだが、原作エッセイではそうなっている。
 
そこで重要なのは、映画というフィクションのとしてのリアリティーを映画の中でどう構築していくかということになるのではないか。
ジミーがアミの死を知らずに、たまたま実家で見つけた18年前の絵はがきに「日本に来たなら会いに来て」という決まり文句を見つけたことをきっかけにアミの故郷へ向かう感傷旅行ではなく、アミの死を知ってなお18年前の「約束」を果たすためにアミの故郷へ向かうという設定の方が、この映画としてあるべき姿だと判断した藤井監督を、自分は支持したい。
アミの旅の理由をあのように変えたなら、ジミーの旅の理由もそれに相応しいものであってほしいと思う。
そして、映画の中では、ジミーとアミの旅は、それぞれ今と今までの自分と向き合う旅になった。
 
仕事を失って人生に絶望するが、将来恋人となるとで女性と出会って、人生が変わっていく。しかし、恋人となった女性は、難病に冒されていて亡くなってしまう。
恋人の病気・死と向き合いながら、前を向いて歩いて行く。
これは映画「余命10年」の主人公茉莉の恋人の和人のことである。
仕事を失うタイミング、女性の死を知るタイミングは異なるが、基本的な構図としては映画「青春18×2」のジミーと同じなのだ。
映画「青春18×2」は、映画「余命10年」の主人公茉莉のアナザーストーリーであるとともに、茉莉の恋人和人を主人公とした物語でもあったのだ。
ただ、和人とジミーが決定的に異なるのは、相手への恋心を伝えられたかどうかという点だ。
恋心を抱きながら、その想いを伝えられないままになってしまったジミーは、「伝えられなかった和人」とも言える。
「青春18×2」は、「伝えられなかった和人」を主人公にした「余命10年」のアナザーストーリーと捉えることもできる(「余命10年」の主人公は、映画のタイトルどおり茉莉だ。)。
これを意識せずに「余命10年」の監督が、「青春18×2」の脚本に取り入れたとは考えられないだろう。
大切なのは、「余命10年」の要素をここまで大きく取り入れた意図である。
旅をテーマにしている「青春18×2」において、主役の2人、ジミーとアミの旅の「理由」、そこに関わっていると自分は確信している。
 
映画「余命10年」のラストシーンは、和人が茉莉に出会った公園の桜並木を通りかかるシーンだ。
茉莉と出会った時は夜桜だったが、この時は朝日に照らされた桜が美しい。
和人の手には墓前に手向けるためのものと思われる花束がある。
出会った時と同じように、突風が吹く。
そのとき、和人の目に笑っている茉莉の姿が一瞬だけ見える。
 
映画「青春18×2」はジミーがアミと一緒に夜景を見た展望台に行き、物思いにふけるシーンで終わる。
時刻は夜ではなく、夕方。海に沈む夕日が美しい。
ジミーがアミのことを考えていると、ふとアミのつけていた香水の匂いがしたような気がした。
そのとき、ジミーの目には微笑んでいるアミの姿が一瞬だけ見える。
 
映画の大切なラストシーンを「余命10年」のオマージュにしていることで、「青春18×2」は「旅する茉莉」と「伝えられなかった和人」の物語でもあったことを確信している。 

■最後に残ったゲームの謎

映画「青春18×2」を見て腑に落ちない点がいくつかあったが、原作を読んでそのほとんどは解消された。
解消されずに残ったのは、ゲームである。
映画の主人公ジミーは大学の友人とゲーム制作会社を立ち上げ、ゲームを作って世に出すということがアミと約束した「夢」の実現という設定で、非常に重要なポイントになっている。
原作ではジミーの職業は明らかにされていないし、現在も仕事はちゃんとある。
原作にないジミーの職業をなぜ「ゲーム制作会社代表」にしたのか。
将来の夢を見失っていた高校生のジミーがみつけた夢がゲームで、自分で作ったゲームが世に出て成功する、それはそれで現代的な「夢」のある話ではある。
ただ、劇中に実際にある台湾のゲーム「OPUS~魂の架け橋~」をプレイするシーンが出てくるので、これはタイアップなのかと思った。
 
映画「青春18×2」の情報をウェブで探していた時、とある投稿が目に留まった。
劇中に登場するゲーム「OPUS」が映画「青春18×2」とコラボして、「OPUS」のゲームシリーズのキャラクターが描かれている、映画「青春18×2」オマージュポスターを作製したというものだ。
「OPUS」というゲームのことは全く知らなかったが、このゲームのファンならたまらないんだろうなと思わせるイラストだった。
そういえば、映画の中でこの「OPUS~魂の架け橋~」というゲームをプレイしているのは、黒木華演じる長岡のネットカフェの店員だが、このゲームを作ったジミーにゲーム上のアイテムの場所を教えてもらい、ゲームのエンディングにたどり着いて、そのエンディングに感動し「ジミーさん、あんた天才!」と言うシーンがあったのを思い出した。
ほんの短いシーンだが、おそらくこの映画と親和性の高いゲームなんだろうな、と感じていた。
 
そういえば、どんなゲームなんだろうと思い、調べてみたら驚きの事実が判明。
このゲーム制作会社の代表が、原作者ジミー・ライと元同僚かつ親しい友人だというじゃないですか。
このゲーム制作会社の代表のインタビューによると、藤井監督がこの代表に取材をしており、代表が語ったエピソードが映画にも取り入れられているとのこと。
映画のジミーは、原作者とその友人でもあるゲーム制作会社の代表のコンボだったのだ。
 
映画のジミーの設定の原型は、映画「余命10年」の主人公茉莉の恋人和人であるのはほぼ間違いないと思っている。
ジミーは自分の仕事まで失い失意の中にあるという設定にするのはいいが、問題はその職業をどうするか。
ジミーは台湾人だし、「青春18×2」の後半の18年に関わってくる大事な設定だ。
何より「夢」に関わるような職業でないと行けないので、ただのサラリーマンというわけにもいかない。
この設定を考えている時に、脚本も手がけた藤井監督が原作者のつてで、このゲーム制作という職業に出会ったと考えるのが自然だろう。
初めは、ゲーム制作という職業の取材だけだったと思うが、最終的にはこの会社でプロットコンサルティングまで手がけている。
 
映画の中でジミーが大学の廊下で会社の共同設立者となる友人と初めて出会うシーンがあるが、これはSIGONO の創業者社長とのSIGONO ディレクターとの実話であり、藤井監督のインタビューで話したとのこと。
原作といい、このゲームの話といい、どう考えても映画オリジナルのベタな創作だろうと思ったところが現実のものだったとは、分からないものである。
 
さらに、この「OPUS~魂の架け橋~」というゲーム作品の中の重要なセリフが映画に反映されているというのだ。
ここまで、映画の中に入れ込んだのは何か理由があるに違いない。
そう思い、「OPUS:魂の架け橋」がどんなゲーム作品なのかちょっと調べてみた。
 ・崩壊後、この地には思い出外何も残らなかった。一片も。
 ・ロケットを作るために終末後の各地に散らばった部品を探す旅に出る。
 ・赦(ゆる)しを得るために彼がかつて拒絶したセカイへも足を踏み入れな  ければならない。
ゲーム作品の公式ホームページ書いてある概要説明の一部である。
藤井監督がゲームの内容を知って、映画に取り込んだのか、あるいは偶然の一致なのか。
 
このゲーム会社の創業者社長は、「『OPUS』シリーズで大切にしている感情部分の映像化に成功したのがこの作品」とも言っている。
この創業者社長のプロフィールに、この会社で製作するゲームの感情の軸は「温かみのある切なさ」ともあった。
しかし、原作では、はっきり読み取れなかった「温かみのある切なさ」は、映画の核となる感情であったことには間違いない。
 
ジミーが旅に出た理由について、原作にはそれほど明確な理由はなかった。
藤井監督は、映画オリジナルの設定として、「余命10年」の主人公茉莉のアナザーストーリーをアミに託すということの方を最初に思いついたのではないか。
一方、ジミーの方にも、「余命10年」の主人公茉莉の恋人和人のモチーフ(職業を含めて全てを失った男)を当てはめることを考えたのではないか。
ジミーは台湾人であり、その具体的な設定(特に職業)を訪ねて、たどり着いたのがこのゲーム「OPUS」だったような気がする。
このゲーム会社の感情コンセプト、「OPUS~魂の架け橋~」の世界観が、藤井監督がイメージしていた映画「青春18×2」にぴたりとはまったので、あれだけ映画の中に取り込まれたような気がしてならない。
制作会社SIGONO が、映画のプロットのコンサルティングも行ったとあるので、そこから出されたアイディアが「ゲーム会社創業者の独善がたたって解任」だったという推測はそう外れてはいないと思う。
この「OPUS」というゲームによって、映画化にあったっての最後のピースがはまった感じがする。

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