時々、多様性が息苦しい
”女らしさ・男らしさ”、”男気”、”オネェ言葉”みたいな言葉で通じていたことをどう表現したら許されるのかわからない。
いや、言葉自体に怒っている人は少ないのかもしれないが、ジェンダーにまつわる言葉を使っているところを見ると「大丈夫か……?」と条件反射で思ってしまうようになったし、自分では使わない・触れないようになった。
また、”自虐ネタ”なんて昔からあるものだが、今マイノリティとカテゴライズされる人や見た目に特徴のある人が自分の境遇をネタにしてても笑っていいかわからない。
みんなが快適に自由に生きるための”多様性”という言葉なのに、気を遣って思うように言葉にできないことが増えている。
この記事も投稿して良いのかわからなかった。でも昨日、こじはるが”女性らしさ”を尊重したランジェリーブランドを立ち上げたのを見て、やっぱり大丈夫だよね、と思えたので投稿してみる。
自分が通っていた小学校では四年生ごろまで全校生徒が黄色い帽子を被らされていた。
女の子はバケットハット型で男の子がキャップ。最初はバケットハット型のを被っていたけれど、なんだか自分に似合わないと感じ、まだ綺麗なうちにキャップに変えてもらった。自分以外にもそうする人はいたが、田舎だし今考えると「女の子なのに」などととやかく言われそうな気もする。
親や学校がスムーズに対応したのが不思議だが、ずっとバケットハット型を被らされていたら学校なんて行きたくなくなっていたかもしれない。
学年に小学校の頃から”オカマ”扱いされてる子がいた。テレビでも自称”オカマ”や”オネェキャラ”の人たちが出てきていた頃だった。
そいつとまあまあ話す関係で、高校生になって疎遠になっても私の親とスーパーで立ち話するような気の良い奴だった。自分はそいつのことをオカマという単語では呼ばなかった。
高校でもそういう人はいたし、女の子が女の子と付き合ってるみたいな話もあった。割と身近に男女というハッキリしたジェンダー以外の人がいたから昨今の多様性を主張する動きは当たり前だと思う。
逆に同性愛者に対して馬鹿にする人が大人になってもいるとは思ってなかったけれども。
ゲイの先輩がたまに「俺は結婚できないから」と自嘲するのが悲しい。誰もが自分らしく生きられる社会になると良いと本気で思う。
しかし、今まで意識せず当たり前だと思ってたからか、改めて多様性、多様性と言われると息苦しく感じる時があるのも事実だ。
昔は普通に使ってた”オカマ”とか”レズ”は差別用語だったし、露出した女性を例えグラビアアイドルだとしてもみだりに性的な目で見たコメントをしたら炎上する。
では逆にキャラ付けとして自ら自称している人や自分を性的な目で見られることを嬉しく思う人、またそれにプライドを持つの気持ちはどうなるんだろう。
見た目に関することは余計なお世話だから言わない方が良いとは言うけど、可愛いと言われたくて、かっこいいと言われたくて努力する人たちの気持ちはどうなるんだろう。
トイレのマークがスカートを履いた赤いマークが女性用でタキシード来てる青のシルエットが男性。ステレオタイプだがずっとそのアイコンなので変えると分かりにくい。
一回間違えたコミュニケーションを取っただけで炎上する。知らないことを最初から間違えないなんてできないのに。それが問題提起になって考える機会になればむしろプラスであるのに関わらず、怒りをぶつける。そしてその大衆の怒りには本人たちの意思は尊重されているか、わからない。
誰も傷つけないお笑いだけが増えていって、モノマネやイジりがなくなって、気を遣い合うだけもしくは仲の良い人たちだけがわちゃわちゃしてる番組が増えていくんだろうか。
マイノリティを尊重しすぎるあまり、別のマイノリティや対立を生んでいるのではないか。相手が自分の思い通りの行動をすると期待しすぎているのではないか。
目に見えないことを逡巡し不快にさせないようにコミュニケーションを取るのって難しすぎる。
多様性という言葉が乱用されるようになってから世界が二分、いやそれ以上にバラバラになっていく感覚になって頭がクラクラする。人類の進化の段階なのですぐすぐFIXする課題ではないのはわかりつつ、もう別々で生きたほうが良いのではと思考を諦めたくなる。
今のティーンたちは割と生まれ持ってある感覚だと思うけど、男とか女とか早くラベリングしなくても当たり前に個人が個人として尊重されるような社会になると良いな〜〜〜〜〜〜〜と思う。
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