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紙とかデザイナーのこれから?について考えたこと

2020年8月21日(金)

日々、猛暑、酷暑。夜、寝入りばなはクーラーが効いていてスーッと入眠できるものの、明け方に寝苦しさを覚えてはアラームよりも早く目を覚ますというルーティンを毎日繰り返していて、疲労の抜けなさ加減が厳しい。

グラフィックデザインを生業としているので、年に数回、紙を売る会社の営業さんが、あれこれサンプルを携えて弊社までお越しくださる。昨日も、紙の専門商社・T社(ファンシーペーパーではなくファインペーパーと呼ぶ会社)の営業さんがいらして、新商品の説明や情報交換をしていかれた。暑い中、ありがたい。

新型コロナウイルス感染症禍の影響で、高価格・高品質なファインペーパーはやはり打撃を受けているとのこと。人が不要不急の買い物を控えるので、日用品以外の商品パッケージ需要が減る。イベントが中止になり店舗は営業の見通しが立たないので、リーフレットやDMなどプロモーション資材が出ない。大企業のオフィス離れ(リモートワーク推奨)の流れが顕著で、オフィス向け資材の需要が減る。

第1次オイルショックの翌年に生まれた自分は、物心ついてからは、紙に囲まれて育ち、紙に不自由したことはなかった。使いたい時に、必要な用紙を使ってきた。デザインやプロモーション戦略立案では、印刷媒体や紙を使うことを自然に考えてしまう世代。しかしこれからは、いろいろな場面で「紙離れ」が進むだろう。不要な書類が減るのは賛成、いい加減ファクシミリはこの世から消えてほしい。

しかしデザインをする人間にとっては、メーカー側で売れない用紙のリストラが進んで、次々と廃版となった結果「欲しい紙、使いたい紙が(僅かしか)存在しない」という不自由は、できることなら避けたい。

そんな状況は困るよね…?いや実際困るのかな…?とその営業さんと話を進めていくうちに、今後の社会の流れと合わせて想像すると、実はそんなに困らないかも知れないと考えが変わったので、つらつらと書いておく。

●経済産業省の旗振りで、プラスチック製買物袋の有料化が導入され、贈答品でない限り、商品の持ち帰りの体裁が人それぞれになったこと

●新型コロナウイルス感染症対策で、従来実施されていた接客サービスが簡便化・簡素化・非接触化されたこと

●イベントや店舗の実施日時・営業時間・定休日等、これまで動かしがたかった情報が固定化されなく(できなく)、流動的になったこと

●テレビ番組でリモート出演が増えたことで、完全にパッケージ化されていない生の素材そのままに近い映像コンテンツが一般的に流通してきたこと(そもそもユーチューバー誕生時から?)

…などなど、これまで世の中に流通していたモノやコトは、過剰にオーガナイズされた状態=パッケージ化・工業化・経済効率優先化されていた。それらが(勝手に自分たちで設定していたとはいえ)不自由な枠組みから飛び出してきているように感じる。言い方に語弊があるかも知れないが、世の中が総じて「いい加減」を許す流れになってきている。

一度、世の中がリセットされてしまったような今の状況は、簡単には覆らないように思える。勿論、高額商品やサービスは従来通りのクオリティが求められるし、提供もされるだろう。

一方で、リーズナブルで利便性が優先されるコンビニエンスストアやファーストフード店などでは、低価格にも関わらず高品質な商品・丁寧な接客・痒いところに手が届くサービスを求めるマインドは、特に若い世代から消えていく。提供する企業の熱意も“不要不急”の部分でなく、提供するモノやコトの核に向けて集中されるだろう。その方が人件費や開発費が抑えられる。

これは地方の行政サービスが置かれた状況も同じかも知れない(周辺地域へのバス運行が制限される、インフラがメンテナンスされない、など)。限りある資源をどこに集中させるか、選ばなくてはならない段階に来ている。

世の中にどれだけ無駄が多かったことか。無駄は豊かさの象徴かも知れないが、今この国は決して豊かではないように見えるし、必要にも不要にも等しく力を注ぐ体力は残っていない。競合との差別化が行き過ぎて、ほぼ無駄の部分で不毛に争っていたことも事実だろう(デザイナーも大いに加担している)。

デザイナーに求められていた、デザイン対象の色・形・インターフェース・ユーザビリティーを突き詰めて、リリース段階で既に「完成」に限りなく近い状態まで作り込むための能力・知識・経験といった職人的職能は、徐々に求められなくなってくるのではないか。あるに越したことはない、しかし優先順位は大きく下がるだろう。

優れた質感・印刷適性を持ったファインペーパーは、デザインの素晴らしい仕上がりに大いに寄与してくれるが、そこまでこだわっているのはデザイナーとクライアントの一部だけしかいないとしたら?その先にいる一般消費者不在では?表現の幅を広げてきたこれまでの数十年からようやく立ち止まり、不要な表現や敢えて伝える必要のない情緒・情感はそぎ落とすべき、という時代に差し掛かっているのではないだろうか。

勿論、近代デザインが概念として生まれてからも、禁欲的で無駄を排した表現やデザインや意匠はずっと存在し続けていた。ところがここ数十年の大きな流れは、禁欲よりも、豊かさを謳歌し欲を肯定する世の潜在的なニーズの方がはるかに強かったのではないか。一見「禁欲的」に見えても、背景にある技術や資源の豊潤さが支えているようなデザインであったり。

現在の日本のファインペーパーの質はとんでもなく高いのは間違いない。気の遠くなるような企業努力の賜物で、文化を創り出してきたと言える。でも、それはハイカルチャー化してしまい、生活から少し浮き上がってしまっていないかしら。何から何まで高品質でなくてもいいよね、と思う。too muchでやり過ぎな気がする。選択肢がそこまで広くなくても、デザインは成立させられる。


これからのデザイナーに求められる職能は、経済・効率を秤に掛けた上で妥当性のある質で仕上げる制作スキルだけでなく、着想→制作→リリースまでのスピードを上げつつリリース後の柔軟な対応を視野に入れたプロジェクトのマネージメント、他業種・他ジャンルとの横断的なノウハウ共用のコーディネート、といったあたりになるのかな…どうかな。「いい加減さや不確定要素を敢えて許して遊ばせておく懐の深さを持つこと」って感じというか…

スピードやクロスオーバーのセンスは、広く「クオリティ」の範疇と捉えることもできるが、それはこれまでとクオリティの意味が変質してきたことでもある。

時代対応するためには、新しい技術や分野の勉強が益々必要になってきている。でもデザイナーが半ば自己満足で行っていた、制作物を自分のイメージに少しでも近づけるための過剰なこだわりが、淘汰されていくことには概ね賛成。昭和の大先生じゃないんだし、もういいでしょう。

色の正確さを検証するために印刷サンプル山ほど作らせたとか、コンマ数ミリ単位で刷版作り直させたとか…そこで求めていた価値を「クオリティ」と呼んでいた時代もあったよね、となっちゃうかも。知識を蓄積するために聞く分にはアリでも、こだわり自慢の武勇伝になった途端、たとえ同業者でも聞くのうんざりするんだよね(自分はわざわざ言わないけれど、協力会社さんに迷惑をかけない範囲でやれるだけやる感じかな)。

毎年、何とかデザイン賞などで新人を発掘して中堅をフックアップして憧れの存在を作り上げて次世代の才能の業界流入を促して活性化、といったこの業界の「スターシステム」が機能しなくなって四半世紀ぐらいか。デザイナーに求められる何かが、昔と全く変わってしまったことの証かも知れない。

世の中の経済や組織の無駄を排除していくと聞くと、いかにも窮屈そうに響く。しかし、ことデザインを生み出す側からすると、意外と緩さが許容されて風通しが良くなる気配をじわりと感じ、現時点ではそんなに暗い気持ちにならないなーと確認したのでした。

デザインフィーのことは別にしてな。

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