見出し画像

『白鯨』 Moby Dickのゲノム (1)

ハーマン・メルヴィル『白鯨』(岩波文庫版 上・中・下巻)を何十年ぶりに読み進めた。
ただし、夢枕獏版『白鯨』CWニコル『勇魚』を歴史的時間軸と鯨捕りの領分で位置決めして、重ね読みしている。なので、kindleづかいでないと挫折する読書法だが、そもそも後者の作家二人、書くほうにも創作意欲をもたげる動機があったはず。それは後に述べることにしたい。

メルヴィルの神経質な荒くれ知性が描く『白鯨』から、陸人間の限界を食い破る海洋勢力のタンパク質を吸収したいと思っていた。

宮沢賢治の──
 “意識ある蛋白質の砕けるときにあげる声
 ──というやつを。

大海原のうねりのように語りが息づくこの作品は、海洋族の《ミーム》が繰り出して、神々との距離(神々と複数であるのはゾロアスター教や古代神話がのぞくからだ)、世界との距離、歴史的な時間軸を失わない重層的な土台構成が見事だ。

ミーム(meme)》とは、英国の進化生物学者・動物行動学者のリチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』(1976年)の中で、人類の文化進化の文脈において用いられた概念であり、脳内に保存され、他の脳へ複製可能な情報、例えば習慣や技能、物語といった社会的、文化的な伝達情報である。
遺伝子の中の〈意伝子〉とか、「心を操るウイルスのようなもの」という比喩もある。
文化的な情報は会話、人々の振る舞い、書物、儀式、教育、メディア等によって脳から脳へとコピーされる。ミームは、そのプロセスを進化のアルゴリズムという観点で分析するための概念だといえる。

ただし、好きずきはしょうがない。鯨に関する研究知識から、海洋・気象・船舶・操縦・生物の知識をこれでもかと繰り出し、登場する人間たちの喜怒哀楽山ほどのボリュームと高密度で、読者を捕鯨船ピークォド号の一員になって付き合えというので、嫌気もさす。
一方、当時の鯨学、捕鯨業の実態、あるいは船員の生活など、記録文学としてメルヴィルの『Moby Dick  白鯨』は高く評価されている。

メルヴィルは1819年に生まれ、1891年に没しているが、彼が生きた時代は、アメリカ東海岸各地の港に捕鯨基地が築かれ、多数の捕鯨船団が太平洋に繰り出していた時代とぴったり重なる。

メルヴィルは22歳(1841年)から捕鯨船アクシュネット号の水夫として、さらに海軍の水兵として3年に及ぶ航海を経験した。

メルヴィルが乗り組んだ捕鯨船は、南太平洋へ航海するが、荒くれ者たちのおよそ人間が見せる暴力と欲望と情熱と技術を目のあたりにして、あまりに熾烈な生存環境に嫌気が差し、マルケサス諸島のヌク・ヒバ島で仲間と脱走した。そこで出会ったタイピー渓谷に住む先住民タイピー族のもとで、約1ヶ月滞留した。この体験を『タイピーまたはポリネシアの生活瞥見』として書き留め、そこにキリスト以前の神話や古代神話を仕込む実験に及んだ(のちにデビュー作の『タイピー』を執筆)。

オーストラリアの捕鯨船に救われたが、タヒチ島で乗組員の暴動に巻き込まれイギリス領事館に逮捕される羽目に。メルヴィルここからも脱走し、エイメオ島(現在のモーレア島)に隠れた。この波乱万丈な航海は、アメリカ捕鯨船チャールズ・アンド・ヘンリー号に救出されて、ハワイに着くまで続いた。

帰国後25歳から『Moby Dick 白鯨』という物語の普請に打ち込み、7年間、32歳で書き上げた。

『Moby Dick ─ 白鯨』のエイハブ船長率いる捕鯨船ピークォド号が拠点としたケープ・コッド湾近くのナンタケット島もその一大センターだった。

アメリカの捕鯨船団が本格的に日本の太平洋沿岸沖の漁場、いわゆる《ジャパン・グラウンド》に進出するようになったのは1820年頃からである。
ちなみに、ジョン万次郎が鳥島でアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されたのが1841年である。

18世紀~19世紀半の欧米諸国による捕鯨は鯨油を採ることが主目的だった。アメリカでは、機械を一日中動かす工場が増え、夜間照明用の鯨油が大量に必要だった。

1854年に調印された日米和親条約のアメリカ側のねらいのひとつは捕鯨船に対する欠乏品の補給と漂流船員の保護にあった。

夢枕獏が『白鯨』に向かって飛び乗った。
夢枕獏版『白鯨 Moby Dick』だが、メルヴィルの『Moby Dick 白鯨』の舞台へ、中浜万次郎=ジョン万次郎という実在人物を奔放大胆に送り込み、馬琴戯作の仕掛けの如く重層的に創作した。メルヴィルの文節が、史実ではない実在の万次郎の心の深層に重ねるように引用されていく。二次創作ならすっきりできるが、ミームの憑依、乗り移り、鯨憑きに間違いない。

明治31年10月も終わる頃、京橋弓町の中浜万次郎を訪ねた気鋭の文人論客、徳富蘇峰に語り出したのは、漂流中、アメリカの捕鯨船・ジョンハラウンド号に拾われた──のではなく、エイハブ船長のピークォッド号だった。

時間軸レイヤと《ジャパン・グラウンド》 に位置決め重ね読みをするしかない。

やがて起きる既視感覚を追うとC.W.ニコル『勇魚』からの補助線が引かれていた、という寸法だ。
自称ケルト系日本人 C.W.ニコルのとてもシンプルな疑問があった── 「海国日本がなぜ海防に意識を集中していなかったのか。」

『勇魚』の舞台は幕末の和歌山県太地。井伊直弼、吉田松陰、坂本龍馬などが世界に目を転じ始めたころだった。エイハブ船長は白鯨によって片足を失ったが、この小説の主人公、甚助は鯨に片腕を奪われている。失意のどん底にあった彼に声を掛けたのが紀州藩士、松平定頼だった。定頼は黒船の出現を知り、海防の必要性を幕府に説き、甚助を密偵に仕立てる。紆余曲折の末、ジョン万次郎に出会った甚助はジム・スカイの名で海外に雄飛する。

未熟な見張役には、どのような巨鯨も、たえずうつろう広大な大洋の、一点のしみでしかない。

こういう語りは、英国南ウェールズ生まれのニコルが17歳でカナダに渡り、その後、カナダ水産調査局北極生物研究所の技官として、海洋哺乳類の調査研究に当たり、また北極生物局で捕鯨担当技官として日本の捕鯨船団とノルウエー捕鯨船団にオブザーバーとして同行。海洋哺乳類の調査研究の造詣が深い作家ならではのものだ。

感じるところがあれば、ゲノムレベルの創出が仕掛けられているという、おまじないをNHKで勉強した。

2022年現在ヒトゲノムの解析がほぼ完了。
細胞は個体を構成している基本単位で、ヒトの細胞は約37兆個ある。
父なるDNAと母なるDNA、それぞれが2本ずつ23組持っていて、その23組から1/2の確率で各1本ずつを子に渡していく。
父親から子へ渡すDNAの組み合わせは、2の23乗およそ800万とおり。同様に母親からも同じ組み合わせであり、すると同じDNAを持つ子が生まれる確率は64兆分の1ということになる。

進化するには変化が必要。
親とも違うということが重要。

遺伝子には違う組み合わせを混ぜてしまう信念(クリエイティビティ)がある。

遺伝子のタンパク質をつくる指示書(エクソン)本体は2%に過ぎない。また28%の設計仕様関連情報(イントロン)があり、残り70%はプロモーターやエンハンサーで遺伝子の働きに影響を与える構成であるとの分析がなされている。

実は、長いイントロン(ジャンク)が個性的な遺伝子を創出する(やらかす)。

600万年前ヒトとチンパンジーが進化の道を分けた理由は、遺伝子の働きが明らかに違っていた。

周囲の組換えを起こりにくくする「StSat(次端部反復配列)」がチンパンジーにはしっかりあるが、ヒトにはなくなっていた。

遺伝子情報の有効利用と創出をやらかすのでヒトになった(NHK ヒューマニエンスで勉強した)。

──以下今回のオマケです。

Led Zeppelin 「Moby Dick」
大海原にうねるSOUL

1969年にリリースされた、レッド・ツェッペリンのアルバム「Led Zeppelin  Ⅱ」8曲目「Moby Dick」。
序盤1分のジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズのグルーヴィなギターとベースのリフの波間から跳ね上がり荒狂う“Bonzo”ことジョン・ヘンリー・ボーナムのドラムソロが支配する楽曲だ。

この曲名は1851年にハーマン・メルヴェルが発表した海洋小説『白鯨 Moby Dick』からつけられている。ボンゾの荒ぶ神がかったドラミングがMoby Dickを連想させるのは当然、合点だ。

ボンゾはバンドが売れる前は大工見習いのレンガ職人で、酒好きで、愛妻家の子煩悩で、ご機嫌野郎の兄ちゃんだった。ツェッペリンのツアーがはじまり、極度の飛行機恐怖症と、長いこと家族と離れているストレスから「鯨海酔候」ごとく、アルコール依存症の鯨飲で1980年9月25日、肺水腫を引き起こして死んだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?