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90年代Hip Hopシーンにおける東西抗争について。2話 90s編

どーもです。

さて、前回、1作目では、東西海岸ヒップホップ抗争』について、80s編をお送りしました。

今回、2作目では、90年代に入ったHip Hopシーンはどうなるか深く説明します。

1990年代に入ると、西海岸だけでなく、東海岸でもハードコアなラップが盛り上がってくることとなります。

西海岸に追いつくような形で東海岸がヒップホップの新ジャンルに参入してきたのです。

この東西海岸のヒップホップジャンルにおける競争は、互いを高め合い、ヒップホップをより認知度の高い音楽ジャンルへと昇華させることにつながりました。

西海岸ではギャングスタ・ラップがより強固なものに

N.W.Aは記録的ヒットを連発して絶好調でしたが、売上金の着服疑惑などが発端となり、メンバー間に不和が生まれます。結果、Ice Cubeが1989年に、Dr.Dreが1991年に脱退。

Dr.Dreはその天才的なビートメイキング能力を買われ、実業家として動いていたSuge Knight(シュグ・ナイト)の誘いを受け、1991年にDeath Raw Records(デス・ロウ・レコード)を共同で立ち上げます。シュグ・ナイトが、Dr.Dreを獲得したいがためにN.W.AのリーダーであったEasy-Eに対し、暴力的な脅迫を実行することでDr.Dreの脱退に決定打を放ったことは有名な話。(このシーン映画でも有ります)

もとよりギャングスタの人間がラップを盛り上げていたこともあり、西海岸で創設されたデス・ロウは極道組織そのものでした。その代表格であるシュグ・ナイトはとりわけ、極悪非道を極めてました。

デス・ロウと言えば、Dr.DreやSnoop Dogg(スヌープ・ドッグ 当時はSnoop Doggy Doggや後にSnoop Lionと名乗っていた)など、現在でも活躍しているアーティストを抱えていたことでも有名です。

また、今なおヒップホップジャンルにおいてレジェンドMCと評されている2PAC(トゥーパック)も在籍しており、デス・ロウに莫大な収益をもたらすに成功しました。

Dr.Dreは1992年にアルバムThe Chronicを発表し、サンプリング音源だけでなく、様々な楽器を使用した音楽的なサウンドの楽曲で世間から注目を集めます。

因みにワイもThe Chronicを聴きます。
オススメの1曲はFuck wit Dre dayでふ。
当時無名だったSnoopがこの曲1発でEazy-Eを強烈にdisり、1992年のたった数ヶ月で無名からスターになったのは余りにも有名な話。話が脱線してすまん。


それらはGファンクと呼ばれ、ヒップホップの新たなサブジャンルとして注目されました。

Dre以上に人気を集めていたのは2PACで、リリースする楽曲はいずれも大ヒット。デス・ロウ所属後初リリースされたアルバムAll Eyez On Meは西海岸を代表するレコードとなり、新たなヒップホップ・アイコンとして世間に認知されることとなったのです。

だが、東海岸もそう易々と負けるわけない。
R&B要素を加えたグルーヴ感満載のヒップホップが話題になりました。

90年代に入ると、東海岸もハードコアヒップホップに参入していきます。しかし、当時は西海岸ですでにギャングスタ・ラップが同様の路線で絶対的な地位を築いていたので、東海岸はどうしてもそこに乗り遅れる形を取らざるを得ませんでした。

西海岸に追いつきたい一心でハードコアラップを盛り上げていた東海岸において、大きな節目となったのはやはり1993年でしょう。やがてデス・ロウと対立関係になるBad Boy Records(バッド・ボーイ・レコード)の設立。

当時、別のレコード会社の人材発掘・育成部門で優秀な成績を修めていたSean Combs(ショーン・コムズ 別名パフ・ダディ)が、突然の理不尽な解雇をきっかけに創設したレコードレーベルです。

バッド・ボーイはヒップホップだけでなく、R&Bジャンルにおいても多くのアーティストをプロデュースしている優秀なレーベル。

楽曲はヒップホップ、R&Bのそれぞれの要素が融合されたサウンドが多く、当時はそれがとても新鮮で、瞬く間に人々から認知されます。ヒップホップだけに捉われず、他ジャンルをも手がけている点がデス・ロウとの大きな違いです。

CEOのショーン・コムズは、プロデューサーとしての手腕も優れている切れ者。

Faith Evans(ファイス・エヴァンス)やTLC、Mariah Carey(マライア・キャリー)、Boys Ⅱ Men(ボーイズ・ツー・メン)、Usher(アッシャー)などの有名アーティストたちのプロデュースも手がけてます。

ショーンはレーベル創設後すぐにThe Notorious B.I.G.(ノトーリアス・B.I.G.、通称ビギー)とレーベル契約を結んでおり、のちにビギーは一気に、東海岸を代表するレジェンドMCへと上り詰めます。

1994年にショーン・コムズのプロデュースの元、ビギーのアルバムReady to Dieがリリース。

ショーンの戦略で西海岸のギャングスタ・ラップ要素を存分に取り入れた作風ですが、随所にR&Bテイストのメロウなサウンドも散見されており、同アルバムはヒップホップシーンの注目を再び東海岸へと集める大きな起爆剤となりました。

因みに、Ready to Die でワイのオススメの1曲はBig Poppaでふ。名曲だから聴いてみてね。

今回はここまで。。

次回は、1995年を皮切りに、東西抗争が勃発することとなる。をお届けします。

3部作じゃ終わらなそうだなあ。。

アデュー!

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