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サウナにおけるととのいの一考察

「ととのう」

これがどういうことなのか、という興味から、

私のサウナ愛好は始まった。

2020年2月、世界ふしぎ発見!で、

女優の清水みさと氏がフィンランドロケ、

トラックサウナでの外気浴を終えてサウナ室に戻る際、

カメラに向かって「ととのってます!」と言ったその言葉。


この言葉が耳に残っていて、

しかし、実際にサウナで検証に及んだのは、

5か月後の7月6日だった。

それまでにサウナの入り方について、ネットを調べ、

一応のイメトレをして、臨んだのである。

場所はUSJの近く、上方温泉一休。


実際の工程は省くとして、結果を申し上げよう。

というか、申し上げるまでもないですね。

今こうしてサウナーを名乗ってサウナイキタイに書きまくり、

ブログにこうして「ととのいとは」みたいなことを

書き綴っているのであるから。

外気浴の休憩タイムはもちろんのこと、

帰る道々、バイクの上でフワフワとした感覚を味わい、

あ~、こういうことかあ

なんて表情筋を緩めていたこと、

これが私の初ととのいであった。


その後、サウナ関連の書籍を読み漁って出会ったのが、

医師でサウナーという人の本である。

ととのいは水風呂から上がって2分が勝負だ、

という記述を見つけ、それに従うべく、

水風呂からすぐに外気浴へと移動し、

その間に手早く身体を拭う習慣もつき、

今なおそれは実践しているところである。

ディープリラックスはその2分がリミット、という、

ウルトラマンにも満たない時間との勝負だというそのご意見、

確かに肉体的なところだけを考えてみると、

決して否定すべきでも無視すべきでもないお説である。

もちろん、間違ったことは言われていない。


しかしながら、それだけがととのいなのか、

それこそがととのいの正体なのか、と言われたら、

私は「ちょっと待て」と言うことになるだろう。

私に言わせると、水風呂から2分の間に起こることは、

確かにととのいでもあり、また、ととのいの入り口でもある。

しかし、物事には脇道もあれば、裏門もあり、

熟練すれば塀をも飛び越えることが出来るので、

塀というものは泥棒除けの役割を最後までは果たせない。

私は言いたい、ととのいにはまだその先もある、と。


まずは普段は感じていない、ほんのそよ風の声を、

耳だけではなく、肌で、匂いで、味で感じてみよう。

目の前の木の葉はそよいでいないか?


このそよ風こそが、ととのいの絨毯である。

3セット目の外気浴ともなれば、

その時間の後半に至って、意識がとろけることもある。

その心地よさは、よき人を感謝の念へと導く。

この時、心がととのうのだ。


巷に溢れる、ととのいについての考察は、

フィジカルなことに偏っており、

ととのいの再現を求め、また論じていることが多い。

しかし、真のととのいというものは、

身体のととのいに心が奪われている限り、

決して訪れることはないと思う。


究極のととのいは、悟りに他ならないと、私は考える。

そう考えると、サウナというのは修行でもある。

修行といっても、我慢大会のような意味ではなく、

脳内を悟りの状態に導く、肉体的セッション。

悟りとは、一度悟ってそれで終わりなのではない。

何度も何度も悟りを味わい、吟味し、深めていくものである。

サウナにおけるととのいとは、まさにそうのようなもので、

だから我々は足しげく通うのである。

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