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「ひもは何でできているのですか?」

ここで「ひも」とは「超ひも理論」学術的には「超弦理論」と呼ばれている理論に登場する「ひも」です。ここで超弦理論を詳しく説明するつもりはありませんし、説明できる知識がないというのが正直なところです。まあ超簡単に言われていることをお伝えすると、電子やニュートリノ、光子と言った素粒子は点ではなく1次元の「ひも」でできているという理論です。素粒子が点でできているとした理論における矛盾や困難を解決できると期待されています。実は以下の議論は「点」であるか「ひも」であるかに関係のない話なのでご容赦を。

数年前ある一般人むけの最新物理学の講演会に出席したことがありました。超弦理論の第一人者でいらっしゃる東京大学IPMUの大栗博司先生の講演があり、講演のあと先生がフロアで参加者からの質問を受け付ける時間があり、ある女性が質問されました。

「ひもは何でできているのですか?」

大栗先生はちょっと考えた後「まだよくわかっていない」というようなことを答えていらしたと思います。正確なやりとりは忘れてしまいましたが最近になってその質問を思い出して考えてみるようになりました。そもそも「何かでできている」とはどういうことなのだろうか?

ひもが何かでできているとしたら、ひもは物質で構成されていることになります。何か問題あるでしょうか?ひもは物質でいいんじゃないの? でも構成している物質というのと、ひもという物質というのとは違った意味があるのではないか。構成している物質があるとしたら素粒子ではなくなりますね。その構成している物質を構成している物質は何か。際限がないですね。「点」粒子だと大きさがありませんから構成しているものは何かという疑問は素朴には浮かばないのかもしれません。でも大きさや構成しているものがないのに素粒子に種類があるのも不思議です。

ゴム紐の振動と金属バネの振動は同じ方程式に従います。同じ方程式でも当然違うものですね。構成している物質が違うからです。でも究極の構成要素、素粒子では方程式が同じ、つまり他との相互作用が同じなら同じ物であると考えることができるのでしょうか。

超弦理論の「ひも」は靴紐のような物質としての「紐」とは違った扱いを受けます。以前に物理好きの人たちと開催していた超弦理論の勉強会でも話題になりました。「紐」であれば「紐」の上のどこかの場所に印をつければ、時間が経ってもその「紐」上の印の場所は変わりません。しかし「ひも」では特定の場所というのは意味を持たないようです。ある時間の「ひも」の上の場所と他の時間の場所との関係は決定できないのです

紐とひも

「ひも」にとって重要なのは素粒子に種類の違いを与える「振動モード」やひもに「端がある」か「閉じている」かと言ったいわば数学的な記述だけです。極言すれば「ひも」でなくてもいい、同じ数学的方程式を満足する存在があれがいいということになります。もちろんこれは素粒子を「点」であるとした場合も同じです。素粒子は数学的な「方程式」でしょうか?

でも数学は「説明」のための言葉であり、「説明」は「説明されるもの」とは違います。「説明」がいくら進歩して「説明されるもの」をより正確にコンシステントに説明できるのようになっても「説明されるもの」そのもの自体ではないはずです。リンゴをいくら説明しても食べてみなければ美味しさはわからない。ちょっと例えが違うかな。

さらに話を逸らして
ある禅寺の和尚が新しい寺を開くことになり、その住職を選ぶために弟子たちをテストすることにした。弟子たちを庭に集め、たらいを置いて弟子たちに尋ねた。「これは何であるか名称を呼ばずに言えるか?」弟子たちはあれこれ述べたが和尚は納得しなかった。厨房係をしている弟子が知らずに通ってたらいを蹴飛ばしてしまいそのまま出て行った。厨房係が新しい寺の住職になった。

それにしても
「世界は何でできているのですか?」

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