見出し画像

僕にとっての『吃音新理論』

最近は、5年(ごねん)、5月(ごがつ)の「ご」が言いづらい、
にんげんです。

今回も吃音シリーズやっていきます!
そして、吃音シリーズの一番大切で、本質的で、エッセンシャルで、、
な内容を書いていきます!😁

僕の吃音の捉え方についてです!

この記事は確実に、絶対、必ず!吃音で悩む全ての方
いや、コンプレックスに悩む全ての方に役立てられる!
そう確信しております。

有益だと思うからこそ、無料で公開します
本当に、誰かの悩みのタネを取り除けたら、うれしいです。

最後までよろしくお願いいたします!

▶吃音を治そうとするのを辞めてみる

僕は、吃音という敵が行く手を阻むたびに、
「絶対いつか治る。流暢に思ったことを話せるようになる」
という強い気持ちを持ち続け、吃音と戦っていました

ある時は、ゆっくり話すことを意識してみたり、
ある時は、歌を歌うように抑揚や音程をつけるイメージで話してみる。
しかし、どんな手を打っても、吃音という敵は倒せず、
結局吃り、一度吃ると焦り、さらに吃る。
最終的に自分の無力さを感じ、激しく落ち込む。
そして、次の日の朝、再び決意し、結果敗れる。

吃音者の皆様も同じようなループを繰り返してはいないでしょうか。
僕はこのループを二十年ちかく繰り返し、完全に疲れはててしまいました。

▶強い気持ちが執着を生んでいる

吃音で長いあいだ悩んでいる人というのは、
話すことへの『執着』が強い。
私は実体験からそう思います。

僕は、幼い頃から、言いたいことを言えずにいた経験をし続けた結果、
毎秒毎分
流暢に話したい・思ったことを話したいタイミングで話したい”
という思いが頭を離れなくなってしまいました。

例えば、僕がもし、神様に願い事を叶えてもらえるなら、
物心ついたときから、願い事は決まっています。

「吃音を治してください。」

仏教では執着は悩みを生むとされています。
もしかすると、
「上手く話せるようになろう。吃音を治そう」
強く願い、
愚直に努力すること自体が

吃音があなたを悩ます一番の原因になっているのかもしれません。

▶吃音は障害か

就活中、社会人時代、
普通の大人なら、いや、普通の人なら当たり前にできる
”話す”ということを難しく感じていました。
そのつど、頭に浮かぶ、いやな言葉がありました。

「自分は障害者なのか」

当時から、吃音者として、障害者手帳を受け取る人がいる、ことを
知っていました。

僕は、『障害者だなんて認めたくないし、認められたくもない。』
   『でも、普通に話せない。』

そのジレンマで、もがいていました。

もちろん障害者手帳を取得しておられる方を
さげすんでいるわけではありません。個人の自由だと思います。
それでも、自分を障害者と思ってしまっている自分が情けなく感じました。

僕は障害者手帳を取得することが自分にとって楽になる、
得になる手段なら、取得したほうが良い
と思います。
(希望の職に採用されやすくなる、給料が上がる、働く時間が短くなる、
 など人それぞれメリットに感じることは様々だと思います)

しかし、もし、そうでないなら、
「自分を障害者。吃音は障害。」と嘆いても
良いことは1つもありません。

なので、僕は吃音を障害だと嘆くのはやめました

▶吃音の2つの辛さ

”正常時もある”という意味では、吃音は辛いです。

その辛さは2つの意味で辛いな感じます。
1つは自分の中で、スムーズに話せる感覚をもちろん知っている故に、
スムーズに話せない歯がゆさを感じてしまう
という点です。
ここで、例として適切かどうかわかりませんが、
僕の尊敬する乙武洋匡さんを例に出してみます。

僕が以前、乙武さんのYou Tube動画を拝見している時、
このようなことをおっしゃっていました。

「自分は生まれつき手足がなかったから、それが当たり前だった。
でも、事故などで後天的に手足がなくなったら、
そちらのほうが辛いかもしれない」

この発言を聞いて、なんだか、しっくりきてしまいました。
(もちろん、吃音であることと手足がないことは状況が違います。
 例に出させていただくことが適切ではないかもしれません。)

言葉が詰まったり吃ったりして、
感じる歯がゆさ、やるせなさは、
調子がいい時はスムーズに話せている楽しさ、心地よさ
を知ってしまっているから
生じるんだなとも思います。

普通に話せているときがあるからこそ、
話せないとき、辛くなります。

(とてもポジティブに捉えると、話すという人間当たり前な行動にさえも、
 吃音者は喜びを感じられるということでもありますね)

2つ目の辛さは
普通に話していることもため、
周囲が理解しづらいという点
です。
もともとの性格が明るく社交的だけど、
仕事で吃って失敗してしまう僕のような人間は
特に周囲の理解を得づらいんです。

話がそれますが、
人と全く話さない仕事はほとんどありません。
そして、業務連絡で緊急度が高ければ高いほど、
電話が使われます。
身振り手振りを使えず、声のみで意思疎通が求められる電話は、
多くの吃音者にとって、文字のごとく鬼門
です。
僕にとってもそうでした。

つまり、
吃音者が職場でのびのび働くためには、
職場の人たちに吃音を理解していただくことはもちろん、
業務上、もしかすると差し支えます!
ということも容認
していただく必要があるのです。

話を戻すと、職場の人たちからすると不思議なんです。
「なんで普段あんなに楽しそうに話しているのに、
電話だと全然意思疎通できないの」というぐあいに。
”正常に”話している普段のシーンが吃音の理解を邪魔をしてきます。
(僕の新卒社会人時代は、吃音ということを伝え、
 詳しく説明しても、
 理解してくださらない方はいました。
 もちろん、理解してくださった方もいます)

そして、ついには、
「落ち着いて、普段どおり話してみて。」
と吃音者からすれば、
そう言われてもどうしようもないようなアドバイスをしてしまうのです。
(このアドバイスはとても辛い・・・😭)

▶吃音は個性か

「吃音は障害」この言葉と同じくらい、
いや、もっと嫌いな言葉があります。
「吃音は個性」という言葉です。

吃音者の方、別の障害をお持ちの方はどうでしょうか?
僕はへそ曲がりなので、独特の意見なのかもしれません。

誰に言われたかは覚えていませんが、この言葉をかけられても、
全然僕の吃音に対するモヤモヤは晴れないし、
吃音のことなんにもわかっていないからそんなこと言えるのかな
とも思ってしまいます。

「障害者マウントとっているだけだ。
 寄り添おうとして言ってくれているんだ。」
とおっしゃる方がいるかもしれません。
確かに、そうかもしれません。
その人のご好意をないがしろにするのは良くはありません。
それでも、僕は「吃音は個性」という言葉を心が拒絶してしまうのです。

吃音者にとって
この言葉、「吃音は個性」はあるしゅ、希望
なのかもしれません。

「そうか、吃音も個性なのか。じゃあ受け入れていこう!」

というように、一瞬ポジティブな気持ちになれます
僕も、以前はそう捉えて前向きな気持を持とうとしていました。
でも、そんな根拠のない希望を持っていたばっかりに、
希望と現実の差を実感するたびに、傷ついていました。

僕の中で
”個性”とは
”適切な場所に行くと輝く、人と違う能力・性格”
というイメージです。
吃ることが、僕や誰かが喜ぶような場面はあるのでしょうか。
僕は今まで経験はありません。
吃らないなら吃らないほうがいいと思ってます。
吃音で誰も喜ばないし、特もしない、これが僕の感じた現実です。

僕個人の経験談と思想なので、他の方に当てはまるかはわかりませんが、
少なくとも、吃音者に「吃音は個性」という言葉をかけるのは
危険だと思います。

▶吃音はほくろ

結論、僕は吃音を『ほくろ』と捉えています。

こう捉えるようになってから、
心が軽くなり、吃音で悩みこむようなことはなくなりました。
でも、いきなり、言われても、皆さんを置いてきぼりにしてしまい、
僕が寂しいので、順を追って説明させてください。

この記事の一番のエッセンシャルな部分です。

この考えに至るまでを、
当時を振り返りながら、説明させていただきます。

社会に出て、吃音による障害を今まで以上に感じ、将来に絶望していた僕。

思い悩みすぎると消えてしまいそうだったので、
簡単に、吃音に関することそして、自分自身の思いを
書いてまとめてみました。

吃音はDNA的な要因があり、治療法は今の所ない。治らない
吃音は僕にとって得はなく、ネガティブなもの

つまり、吃音とは、永久に取り除けない不利な欠点。

僕は、明るく、ポジティブに生きたい。たくさん人と話したい。
挑戦的に生きたい。色んなところに行きたい。色んなことを知りたい。

今までは、吃音が僕の人生を邪魔していると感じ、
その度に悲し苦しんでいました。

でも、書き出してみると、
「ん?もしかすると、そんなこともないのかも。
 直接的に関係していないのでは?」
と思いました。
そんな疑問が一瞬頭に浮かび、即興で例を作って考えてみました。

昔々、あるところに、顔に特徴的なほくろを持った男がいました。
(ほくろは消せないという条件)
その男は歌舞伎町No.1ホストになることが夢でした。
ですが、初めは、なかなか、売れません。
しかし、男はくじけず、美には気を使い、規則正しい生活を心がけ、
話術を学び、知識を蓄えるための勉強も惜しみませんでした。
結果、歌舞伎町No.1ホストになることができました。
めでたしめでたし。

(なぜ、No.1ホストを目指す男なのか。
 なぜ、ほくろなのかは置いておいて)
この妄想の中で、ある仮説が僕の中でできました。
『ほくろは夢の邪魔をしない』ということです。

”ほくろ”は顔にあったほうがいいか、ないほうがいいかで言えば、
ないほうがいいと思います。
つまり、ほくろは(特にホストにとっては)不利な要因です。

でも、「ほくろが顔にあるから、俺はホストに向いてない。やめよう。」
ってなるのは僕の感覚からするとおかしいです。
仮にそれであきらめてしまうなら、夢への熱量が少ないだけだと。
(僕の顔、よく見るとほくろ、多いんです。
 でも、ほくろをコンプレックスに感じたことが一度もないので、
 このような思考に至りました。)

ほくろは顔にあるけど、
そんなことは気にせず、
考えられる努力を積み重ねていく。
その結果、この男は夢を掴めた。
そうあるべきだと思ったんです、
僕自身も。

『僕と吃音』に話を戻します。

吃音はほくろと同じで、不要かつ不利な要因です。
そして、取り除くことはできません。
だからといって、
吃音は自分の人生の可能性を狭める要因になり得るのでしょうか。

いや、そんなことはないんです!
なぜなら、コミュニケーションの本質は
「吃ったか、吃らなかったか」ではなく、
「意思疎通がとれたか、とれなかったか」
だからです。
仮に吃っていても、意思疎通が上手くとれる場面はあります。

このホストの男のように、吃音ということは気にせず、
自分の生きたいように生きていいんだ、
そう思いました。

『吃音は僕の夢を、人生を邪魔しない』のです。

▶さいごに

この『ほくろ理論』は
「吃音を障害」と思ってしまった時に感じた闇のようなネガティブさも、「吃音は個性」と思った時に感じた根拠のないポジティブさ
感じませんでした。
至極論理的で、客観的。
「ただ、僕が吃音者だったという、”それだけのこと”。
 それはそうと、僕は生きたいように生きよう」という感覚

吃音を
”それだけのこと”と思えることがこんなにもポジティブなことなんだ。
そして、論理に裏付けされた自信すら感じるだなんて。

ほくろ理論習得以降、
僕は、吃音に縛られない、自由な生き方
をできるようになりました。
(「自由な生き方を心がけた」の方が表現として正しいかもしれません。
 いきなりはできませんが、そう生きようと勇気を持ちました。)

人と話す時、
昔なら、「どうしたら吃らないだろうか」
と考えていましたが、
今は、「どうしたら、相手に伝わるか」
を考えて話せています。
しっかり伝えるために、
”目を見て話そう”とか、”笑顔で話そう”、”抑揚をつけて話そう”
というように、
考えられる”努力”が今、できています。

吃音で悩んでいるあなた、そして、
他のコンプレックスで悩んでいるあなたにも、通ずる
話だと思います。

もう考えても仕方ないコンプレックスは
ガン無視して、
自分にできることをやっていきましょう!

(このほくろ理論、
  ほくろじゃないくても構いません。
 ほくろをコンプレックスに感じている方もいると思います。
 基本取り除けない、多くの場合で不利になるけど、
 自分はさほど、気にしないコンプレックス。
 それをほくろの替えとして、
 当てはめてもらって構いません。)

この理論を知っていただけただけで、僕は大大大満足です。
そして、欲を言えば、あなたの悩みのコアをなくすような、
決定打になればいいなとも思ってしまっています。


本記事は長くなってしまいましたので、
ここで締めさせていただきます。

最後まで、お読みいただき、ありがとうございます。

また、書きます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?