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情熱とアート作品の間

この前、清澄白河の現代美術館に行ってきた。
現代アート作品をじっくり鑑賞すると、アートの認識を再定義できたように感じる。

現代アートはウォルターベンヤミンの云うメカニカルリプロダクション、(アウラを失った)気散じのエンタメ複製物である。
アウラを失い、すごく権威のあるものから気楽な消費されるいっときの時間を提供する非工場的生産物となった。
いや、オークションという点では非常に工場生産的だし、ウォーホルもファクトリーをつくったわけだし一概には言えないか…

オークション市場で取引される作品だけは、ベンヤミンのいう複製技術時代以前の芸術作品の権威をまとっている。

この文脈でみると、なるほど、宮台先生のいう中国の権威主義と中国のアートオークション市場の加熱の相関は読めそうだ。

しかし、まずアート作品はいかなるものであれ、情熱ありき、情熱が先立ちスタートする。
現世界は実存は本質に先立つが、アートは本質が実存に先立つ。
ルネサンス時代は実存が先立っていたかもしれない。
それは、
1.アーティスト支援パトロンが多く存在し、作品制作のエコシステムが存在し、アート制作を非日常ではなく、日常で使用する協会権威主義の社会システムであったことと
2.アートと科学が融合していた、あるいは、同じ方向を向いていた時代
だからという条件が存在する。

しかし、もはや写真やコンピューター、AIやロボットが出現した今、機械が寸分狂わずある程度の生活品は生産してくれる。しかも凄い勢いで。

だとすると、アートは人の手で作られるための価値が必要になり、それが情熱の熱量ということになる。

なぜこんなことを書くかと言えば、私は今あらゆる情熱を見失っているのでそれを見つけたいと思っているからなのだ…

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