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【推理小説】『黄色い菓子の謎』第14話

14.夢の中で

ワイフは二時近くまで店にいたが、おかみさんが戻るくらいにまた来ると言って家に帰ってしまった。一人にしている腰痛のじいさんのことが気になったようだ。
さっきまで子どもたちで大繁盛だった店も凪の時間となり、今は店に九子と姉妹しかいない。朝早くから起きていた姉妹は眠くなった様子で、特に妹の方は座ったままウトウトし始めた。九子は、二人を二階に連れて行って昼寝をさせると、一階に戻って店番を続けた。
少し開けた表の引き戸から、秋の爽やかな風が吹き込んでくる。焼き芋の匂い、金木犀の匂い、落ち葉の匂い、そういうものをかすかに含む空気が、九子の鼻に吸い込まれていった。
やがてコクリコクリと、彼女も夢の世界へ落ちてゆき…。
・・・
海沿いを走る列車に揺られ、九子は旅をしていた。向かいの座席には、父と息子らしき二人連れ。たまたま同席しただけだが、昔どこかで会ったような懐かしい感覚があった。
――父さんがお前くらいの齢の頃に初めて洋菓子を食べたんだ。伯父さんが広島の展覧会に行ってね、そのお土産でレモンのケーキを貰ったんだよ。ドイツ人の洋菓子職人が作った、本場の本物のケーキだ。
少年の灰色の瞳が、車窓から見える海のように輝いている。
――その味に感動して、父さんは洋菓子職人になったんだよ。
やがて、列車はどこかの駅に止まった。窓を開けると、弁当の売り子の声がする。
――Zitronenkuchen…、Zitronenkuchen…
父親が呼び止め、一つ買う。受け取った経木の弁当箱には、黄色の薄紙がかけられていた。あのレモンケーキの包装紙と同じ絵の。
息子の膝の上で取り払われた紙は、風に乗って車窓から飛び出し空へ舞い上がった。青空に黄色の欠片が吸い込まれていく。九子が、その光景をぼんやりと眺めていたら、向かいの座席で大きな声がした。
――これじゃない。ぼくも、お父さんが昔食べたツィトローネンクーヘンが食べたい。
彼の折詰にあったのは、直方体のツィトローネンクーヘンではなく、レモンの形のレモンケーキだった。父親は、ただ黙って息子を見つめている。
再び、列車は動き出した。車窓の風景は海ではなく、戦後すぐの商店街に変わっていた。正確には、まだはっきりと商店街になりきれていないバラックの建ち並ぶ一角を、さっきまで同席していたはずの父子が歩いていた。母親らしき人物が二人を迎えに出ている。目を凝らすと、若い頃の婆様の姿が見えた。まだ赤ん坊のじいさんが背負われている。
次第に列車は速度を上げ、それらすべては流れていった。
向かいの座席には、もう誰もいない。手が付けられぬまま放置されたレモンケーキの折詰が、列車の振動で揺れていた。
九子がそれに手を伸ばした時、音もなく車掌が駆け寄ってきた。九子の腕を掴んで離さない。その顔を見ると、駄菓子屋の姉妹の姉だった。無言の瞳が、何かを訴えている…。
・・・
九子が目を覚ますと、夢か現か、同じ状況で腕を掴んでいる姉がいた。いつの間にか眠ってしまっていたことにハッとし、時計を見るともうすぐ午後三時。
――すみません。
不意に男の声がして、九子は飛び上がるように立ち上がった。逆光でわからなかったが、入口に誰かいる。九子が来客に気づいたことを見届けると、静かに姉は二階へ上がって行った。
――受け取りのサインをお願いします。
それは、宅配便の人だった。伝票と引き換えに渡された、弁当箱ほどの大きさの小さな包み。品目を見ると、おかみさんが通信販売で注文した店の暖簾らしかった。
九子は、目を覚ますために入口の引き戸を全開にして店全体に風を入れた。まだ明るいとはいえ秋も深まり、通りを照らす日差しには夕暮れの色が混じる。
その日差しの向こうから、おかみさんが歩いてくるのが見えた。

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