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oldinary landscape

先日PCR検査を受けてきました。 

先週から体調を崩し発熱が続いていたので保健所へ連絡してから病院へ二度通院、その上で検査を行ってきました。

最寄りの病院までの道のりは車で10分程。しかし感染のリスクもあり家の車は使いませんでした。かといって公共交通機関を使う訳にもいかないので、なるべく人が通らない田舎道を選び徒歩30分程かけて通院。

その道中で、昔から見慣れていた景色は既に日常となっていたはずなのに、日常とかけ離れて見えてしまったという事実。

検査結果は陰性でしたが、このコロナ禍の時代で、見える・観るものが今更に変わるものなのか?という疑問に気付きを得て、新しいテーマで写真を残していこうと決めて、写真を撮ってきました。よろしければご覧ください。

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 時間=瞬間=切れ端 感情、情念、情報を残そうと写真を撮る。見返すという行為を取った時、物の性質は変化しないのに時代や自分の立ち位置が変わると、本来質感を感じていなかったものに今になって質感を感じるようになる。それは、少ない情報に赴きを感じるようになったから。

目で見ていたはずなのに写真にすることによって相反して解像度が上がりハッキリとしてしまう事がある。日常のノイズが消えて対象物のテクスチャを浮き彫りにさせてしまう鋭さ。

かと思えば、作為的に物体をボヤケけさせ曖昧に見せる優しさを併せ持つ。

時としてそれはとても残酷で、記憶は変容できるが写真は過去を突き付けてくる。どうしてもそれは”過去だった”と認識させられる。いつだってこの景色は目の前に合ったはずなのに、日常という概念だけが取り残されていた。

僕たちは進み続ける列車の窓から、変わらないものを見ていたい。


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