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國分功一郎「暇と退屈の倫理学」を読んで(その1)

今回からこちらの本を読みます。
友達から借りた本です。
いわゆる哲学書らしいのですが、初心者の僕でも読みやすい印象です。
序章「好きなこと」とは何か?まで読んだので、そこまで読んだ感想を書きます。

いつも僕は時間的な余裕、経済的な余裕が欲しいと思っています。
しかし、本当に時間的余裕、経済的余裕を得たとき、その先の人生はどんなだろう?
そんなことを考えました。

時間的余裕と、経済的余裕。つまり自由を手に入れる。自由になったら、暇です。暇の中で何もすることがないと退屈です。
この本は、その、暇と退屈を考えた本みたいです。

暇を得た人が、そこから主体的かつ自発的に何か「やりたいこと」が見つかれば何も問題ないのです。ただ、過去の哲学者たちの主張を見るに、どうもそうではなさそうです。

要約

以下、自分が印象に残った部分を中心に引用した、序章の要約です。

経済学者ジョン・ガルブレイズによると、現代人は、自分のやりたいことを自分で見つけられなくなっており、広告やセールスマンから何かを提案されて初めてやりたいことが見つかっているそうです。
これはなんとなくわかります。
豊かな社会になり、人々は暇を得ました。しかし、その暇を何に使えばいいかわからない。だから、与えられた楽しみに身を委ねてしまう。

ウィリアム・モリスの答え

では暇を得たとき、何をすればよいか。
イギリスの社会主義者、ウィリアム・モリスはこう答えています。
「自由と暇を得たとき、そのとき大切なのは、その生活をどうやって飾るかだ。」
ウィリアム・モリスは、自身の活動の中で、日常的に用いる品々に芸術的な価値を付加しようとしたそうです。
味気ない日常より、芸術品に囲まれた生活の方が、確かに豊かだといえます。
芸術的な価値は、そのまま豊かさに直結するかもしれません。
「人はパンがなければ生きていけない。しかしパンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない。」

アレンカ・ジュパンチッチの主張

また、ここでもう1つの論点が提示されます。
アレンカ・ジュパンチッチという哲学者が、なかなか恐ろしいことを主張していました。

人は自分を奮い立たせるもの、突き動かしてくれる力を欲する。
→突き動かされている人間をうらやましく思う。
→たとえそれが、大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たちでも。

つまり、極端な話、自分を突き動かしてくれるものがあるなら、命さえ捧げかねない、ということです。

自分はいてもいなくてもいいものとしか思えない。
→何かに打ち込みたい。
→自分の命をかけてまでも、達成したいと思える重大な使命に身を投じていたい。
→なのに、そんな使命はどこにも見当たらない。
→だから、大義のために命を捧げることすら惜しまないものたちがうらやましい。

ただし、この主張に該当するのは、暇と退屈に悩まされている人間のことです。
食べることに必死の人間は、大義に身を捧げる人間に憧れたりはしません。

生きているという感覚の欠如。
生きていることの意味の不在。
何をしてもいいが、何もすることがないという欠落感。
そうしたなかに生きているとき、
人は「打ち込む」こと、「没頭する」ことを渇望する。
「暇と退屈の倫理学」は、この渇望にも答えなければならない。

感想

もし自分が今のまま自由になり、時間的余裕、経済的余裕を手に入れたら危険かもしれないと思いました。

暇を持て余し、何をすればいいかわからない状態に陥り、周りに支配されるがまま操作され、挙句の果てには誰かに突き動かされた末、身を捧げて命を落とす可能性がある。

自由になる前に、得た暇で何をすれば良いか、その答えなり、哲学を持つまでは、自由になってはいけないのかもしれません。

この本には答えはないと友達が言ってました。
でも考えるためのヒントやきっかけはあると言ってました。

この本を読む中で、興味を持った哲学者なり思想なりが見つかって、自分の中の答えを模索する足がかりになれば良いな、と思いました。
続きが楽しみです。


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