シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇 感想

*ネタバレ注意

 絶望的な物語と幸福な物語、どちらの方がその作品のエネルギーが高いかと言われると、私は前者と答える。絶望している人間は、その絶望の状態から脱するため、果てはその絶望を逆に食らいつくそうという覚悟さえ持って、これをどうにかしようとする。実際に、多くの逡巡と、重大な決断と実際的な行為が見られる。その思考と行為の深さは凄まじい。絶望が深ければ深いほど、その具合は度を増していく。

 翻って、幸福な人間は、自身の状態から脱しようというエネルギーが薄い。既にある程度幸福な人間が、自身の何らかの行為によってなぜ敢えて不幸になる必要があろうか。そもそも幸福な人間は、自身の幸福な状態を鋭利な眼で見つめる意味がないのである。幸福の実態は停止である。そうあることが望ましいのである。それはもう山の頂上なのである。ここから強いて下山し、また地面に戻って(絶望的な状態に戻って)歩き出すような人間はいないのである。あるとしても、せいぜい少し下りて尾根を渡って景色を楽しむくらいである。そこに次の山はない。少し高いところがあるかもしれないが最大標高の記録が大きく更新されることは多分もうない。富士山の周辺にいる限り、エベレストに登ることはできない。

 だが、地面にいる(絶望的な)人間は違う。彼らは、嫉妬と羨望の眼差しで、山頂にいて見下ろしてくる(ように見える)幸福な彼らを下から見つめ、どうにかできないかと画策する。地面にいる分、彼らは広く柔軟に動ける。多くの思考の逡巡と実際的な行為を伴って、エベレストを見つけ出し、その登頂を果たす人間もいれば、登りきれず死んでしまう人間もいる。また、富士山より低い山を自身の目標と据えていくらかの妥協も伴って、その登頂に取りかかる人もいる。どこか明後日の方向に行って夢が破れる人間もいる。

 幸福な物語とは、既に富士山の頂上にたどり着いている人間がその風景を楽しむためにあるものである。翻って、絶望的な物語は、地面にいる(絶望している)人間を富士山麓から全く別世界(エベレスト)に連れていく可能性を秘めたものである。そして、物語の描き手自身もまた、物語の制作過程を通じて、新たな景色の可能性を秘めた謎の山を発見し、その山の攻略に挑む。というよりは、攻略に伴う苦悩と苦痛の産物が、絶望的な物語と言えるかもしれない。過程と結果は一体である。当然、山頂付近で景色を楽しむ幸福な物語よりもエネルギー量は格段に跳ね上がる。山の攻略には様々な問いと答え(多くは答えられず沈黙が伴う)、(矛盾だらけの)苦渋の決断の連続が必要になる。観者は物語を通じて、その山の(絶望的な)素晴らしさ、力、甘美さを擬似体験し、めいめいに動き出す。

 旧アニメ版エヴァンゲリオンはそういう絶望的な甘美さを秘めた物語であった。それは、庵野監督がまだ駆け出しで不安定な境遇の下、金銭的にも時間的にも追い込まれ、その壮大さに比して制作環境は恵まれていないという状況、常人がその一ミリさえ味わうことができない切迫した絶望的状態にあったからだろう。一歩間違えれば滑落する。そんな危うさを旧アニメ版は秘めていた。

 ではシン・エヴァンゲリオンはどうだっただろうか。この作品は端的に言って、既に救われている観客、幸福な世界に生きる観客が、自身が救われていたこと、(程度に差はあれど)『エヴァンゲリオン』という呪いから「既に」解放されていた事を自覚する物語であった。要は幸福な物語であったと私は思う。決して、今絶望している者に対する救済の物語ではなかっただろう。旧作の呪いを解放するため、度重なるセルフオマージュが各シーンに散りばめられており、それら幾多の手続きを経たのち、最後に現実世界を出現させ、虚構を畳んだ。また、メタフィクション的な存在(マリや北上みどり)や描写もしばしば多用され、観客は庵野監督の誘導のまま物語の外の視点(現実)を保持しつつ、この風呂敷が畳まれるのをまるで儀式のように見つめた。一種の供養であった。そこに発展性はなく、多くの人を蠱惑した世界観設定、専門用語はぐちゃぐちゃのままファッションのように扱われ、人間関係が次々と精算された。

 庵野監督もまた救われていた人間であったがゆえに、もはや絶望した人間を突き刺し毒を以て救い出すような物語を描くことはできなかったようだ。いや、それはエヴァンゲリヲン新劇場版のシリーズが、旧アニメ版の大きな種子を実らせるための起爆剤としてエンタメ的に用いられた時点で、望まれたものではなかった。会社を維持するための資本を蓄えるためには、絶望的にエネルギー溢れる稀有な人間よりも、幾らか幸福な大衆に焦点を移す必要がある。会社の発展には、0から1を生み出すのではなく、1から100を生み出す方が圧倒的に重要である。いや、正確には長い目で見れば両方が重要なのだが、0から1の作業を庵野監督がわざわざ再度請け負う必要はないだろう。そういうわけで新たな種を難産し、実るかもわからないものを播種するよりも、今ある実りそうな種を大切に育む方を選んだ。旧アニメ版エヴァンゲリオンという山を下山せず、その山の付近の新劇場版エヴァンゲリヲンという尾根を渡り歩き、大衆に景色を提供した。彼はある意味経営者として、持続可能な道を既に歩んでいた。『序』『破』が発表された時点でそれは明白であった。前作と比べシンジの周りの大人は大分物分かりがいいし、物語は設定上のあやを意識しなければ極めて明瞭に進んでいた。大バッシングを食らった『Q』でさえ、シンエヴァンゲリオンという風呂敷を畳むための物語の前座と考えれば、よくできていた。一転して、シンジに対する周りの登場人物のガン無視はわかりやすかった。それは演出装置的なディスコミュニケーションであった。シンエヴァンゲリオンのきらびやかな救いを演出するためには、『Q』によってシンジやその周りの人物を地の底に突き落とす必要があった。端的に『Q』は物語の高低差を作るための役割しか果たしていなかったのではないかと思う。庵野という天才は、新世紀エヴァンゲリオンという山頂にたどり着いたが、新たな景色を求めて強いてその山から降ろうとはせず、今ある景色をより流麗に映す選択をした。彼は、山登りの天才でもあり、山歩きやカメラマンとしての秀才でもあった。シン・エヴァンゲリオンはその山歩きの終焉を告げた。庵野監督が、新たな山の景色を提供してくれる事を期待した(絶望的な)人間はそのまま落胆したであろうし、一緒に山歩きをした人間は「庵野お疲れ」と言って拍手したであろう。涙を流した人もいただろう。シンエヴァンゲリオンは、いささかの展開の陳腐さが約束された、しかしそういう展開にせざるを得なかった、極めて幸福な物語であった。それに尽きるだろう。


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