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轟々と流れる時の中にいる

多分一番好きな小説だと思う「ムーンライトシャドウ」が映画化されたので

観に行った。少しの不安と共に。好きな小説というのは、

自分の中にイメージが何度も再生されているので、それが壊されたらどうしよう・・・という気落ちが結構強い。

その点に関して、今回の映画化は全く影響がなかった。不思議なくらい。

自分の中に持っていたイメージが出ていたかというと違うとも言えるし、似ているとも言えるし。絶妙な塩梅になっていた。何よりも、幻想と現実の切り返しが秀逸だった。観てもらわないことには伝わらない方法によって…明らかに現実と、主人公が見ている幻想が棲み分けて表現されていた。とにかくこの映画に関しては小説「ムーライトシャドウ」の世界観を壊さず、また、映画としての新たな表現も加わった美しいものになっていた。ですのでオススメ。ただし、ほとんど何の加工もされないしかも会話も少ない映像が続くので、大きい画面で観ないと空気や光の奥行きが伝わりづらく、単調な映画と誤解される恐れはあるかも。できるだけ、大きな画面でを推奨。

ところで、この小説「ムーンライトシャドウ」は仏教で言う「彼岸と此岸」を感じられる話だと思う。こちらとあちら、生きる世界と死後の世界、二つの世界を分断するものとして「川」が出てくる。「私」と「死んでしまった彼」をくっきりと引き裂くのは「川」だ。今回この映画を観たあと、すぐに秋の彼岸が来て法話を聞いて、また季節の別れ目を通してはっきりと感じたことがあった。それはこちらとあちらを分断するのは「川」でもあるが、「時」なんだろう。と。生きている私を完全に支配しているのは「川」と同じようにいつも流れ続けている「時」だ。身の回りに感じる小さな区切りを見せる時と、地球全体で回っている大きな時と、両方いっしょくたに轟々と流れているのは目には見えない「時」だ。

目に見えないという意味で言えば「時」というのは「川」よりよっぽど幻想的だ。なのに人は目に見える「川」を軸に、こちらとあちらとに境界を引いては世界を分断して見ている。見えていない「時」は操れているつもりの中で。

時がある世界にいてはきっとあちら側と交信はできない。

でも人は、全く制御不可能な大いなる「時」の中でしか生きていない。轟々と全てを呑みながら、想像する余地も残さず、残酷にこちらとあちらを分断しながら今日も時は流れている。





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