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九州親鸞フォーラム「食事・仏事・大事」原稿/長野文

2022年
5月29日(日)九州親鸞フォーラム
「食事・仏事・大事」原稿/長野文(長崎県正法寺)
 
本日は、真宗大谷派九州教区主催の親鸞フォーラム
「食事・仏事・大事」へ、
お越しくださり、誠にありがとうございます。
 
本フォーラムの開催に際し、
企画・立案のメンバーとして長崎正法寺の長野より
開催趣旨について少しだけ、お話をさせていただきます。
 
家族のことを思って毎日料理をしたいのに、
そう思って前向きになろうとするほど、疲れてしまう。   
料理は好きだけど、向き合うのが重苦しい。
私もそんな思いを抱えながら、家で料理をする一人でした。
そんな中、2017年のお正月明け、食卓に普段のメニューが戻る頃、
土井先生の著書、「一汁一菜でよいという提案」を読み終えたのを、
とてもはっきりと覚えています。
その日から料理への心構えが驚くほど変わりました。
それほど先生のお話は家庭料理の本質に迫るものでした。
土井先生の「一汁一菜でよいという提案」は、
単なる粗食のススメではありません。
詳しくは先生のお話をお聞きいただきますが、
それは和食の初期化を促すもので、日々の生活を整えるもので、
キッチンと地球を繋ぐような大きな視野が開かれる思想です。
 では本来シンプルであったはずの日本の家庭料理が今、
こんなにも複雑に見えるのはなぜでしょうか?
 
冒頭に私は、料理に向き合おうとするほど疲れてしまっていた、
と言いましたが、その根本的な理由は、
よくわかっていなかったと思います。
だから解決もできず、そのまま重苦しい気持ちだけが続く、
そんな状況だったのです。
私は、家庭料理が持つ深さを知らず、
うわべのところでぐるぐると迷っていました。
土井先生も著書で使われている言葉ですが、
そのような状況を、仏教では「無明」と言う言葉で表します。
「無明」と言う言葉は、「明るく無い」と書きますが、
単純に「なにもわかっていない」と言う意味ではなく、
「なんでもわかっているつもりになっている。
なんでもわかったとしている こころ。」
のことで、真実に気づけない人間の思い込みの暗さを明らかにする言葉でもあります。テレビや出版物に加え、日々流れ続けるネットの情報や、
物質的に恵まれている環境の中で、
なんでもわかっているし、
知ることができているという思い込みの愚かさは、
料理に関わらずとも、見られることです。
浄土真宗の御本尊である「阿弥陀如来」は、
そういった人間の愚かさを照らし出す働きをもつ
仏様でもあります。また、「南無阿弥陀仏」の念仏には
阿弥陀如来に帰依します。と言う意味合いもあります。
さて、この「南無阿弥陀仏」という念仏ですが、
この念仏も一汁一菜と同様、家庭の中で代々受け継がれてきました。
でももしかすると、私が一汁一菜の型を忘れてしまっていたように、
家庭の中で念仏が伝わっていた時代もあった。
という状況なのかもしれません。
念仏が伝わるのは今日のテーマにもある、「仏事」の場でもあります。
お葬式や法事といった「仏事」とは、死者=亡き人、との対面の場、
亡き人が還られた世界との、対面の場でもあります。
土井先生は、「月刊住職」という雑誌への寄稿に、
真宗大谷派の僧侶である宮城しずか先生の、
【「救われるということは 場所をたまわるということです。」
という言葉を引用され、食事、料理して食べる、料理してもらって食べる。料理して食べさせるところに居場所が生まれます。
家庭料理は子どもの居場所を作ります。】
という文章を書かれています。
「仏事」は、生きている私たちが場を作ります。
そこに亡き人との対面の場が生まれてくる。
そして先人が還られ、わたしたちも還っていく場が
そこに現れてきます。少なくとも、儀式的な
継承はそれが伝わるよう形作られてきています。
しかし今、そういった場は多く開かれているでしょうか。
「食事」「仏事」、人間生活の根本的な場の継承がぐらついている。
この共通点が本日のテーマに繋がっています。
 
子どもがまだ小学生のころ、
学校から戻ってきてすぐ、まだ夕飯の支度を始めてない私に
「はやく作って」と言っては、気持ちが落ち着かないということが、
頻繁にありました。しかし、水の音や、まな板で何かを切っているような音が鳴り出した途端、子どもは作っている気配を感じて、
すぐに落ち着いていました。
ご飯を作ってもらっている、という音が聞こえた時、
そこには安心があったのだろうと思います。
機嫌が直って、楽しく遊び始める子どもを見ると、
こちらもホッとして料理を作る力が湧いてきました。
この親子で作っている場、何気ないひとこまではありますが、
ここに在る関係性も本日大事にしたい話の要になるかと思います。
 
食べる人と作る人、
死者と生きている人、
【食事】と【仏事】
二つが交わる交差点で、
今日はじっくりと対話をしてみたいと思っています。
それではまず土井先生より、
「一汁一菜でよいという提案」から始まる広くて大きなことへと
通じるお話をお聞きしましょう。
改めて本日はお越しいただきありがとうございます。
以上で私からのお話を終わります。

今後お寺の坊守【BM】を盛り上げるための資金にいたします。