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ボンボンの見かた

最近は右肩下がりで底辺を彷徨っていたボンボンですが、ものづくりのおかげで底辺を脱出。不思議なもので、たった一つの階段を上がっただけで、世界は違って見える。

誰だって自分の好きな様に世界をみてると私は思っている。自分の生きやすいように。自分からみた世界観の中に生きている。


私にとっての「愛」と
私にとっての「有り難い」

この2つの事を底辺を彷徨いながら考えていた。


私にとっての愛は、限定品じゃない。

どこにでも、いつでもそこにあるような存在が愛だと思っている。

それはあまりにも自然にそこにあって、そこにある事にすら気が付かない事もある。そういうのが、私にとっての愛。

愛はかくれんぼなんてしていない。当たり前のように堂々とそこにある。

探そうとすると見えない。探そうとする時、まさか目の前にあるとは思わないし、手に握っているだなんて想像すらできない。だって、「無い」と思い込んでいるんだから、そこにあったらむしろ困る。思い込みだ。と知るのは怖かったりする。

それでも、そこにあると気がついた時。自分の世界は一変する。

とても有り難いと感じる。


私にとっての有り難いは、時に「有る」と「難しい」の間にこんな言葉が入る。


「有る」と気が付く事が「難しい」


愛は様々な事柄や物や人なんかからとめどなくずっと降り注がれていて、そして、私からもとめどなくいつも放出されている。

当たり前の事を当たり前でないと感じるのは至難の業。膨大な量の場合、消しておかなくちゃ処理できないし、いちいち感じていたら身動きがとれないこともある。無いことにしておいたほうが軽やかに生きられる時もある。愛の量は無限大だから、受け取る側がそれを調節しなくちゃならない。

要らない時だってある。

うざったいときもある。

面倒なこともある。

押しつぶされそうになったりもする。

愛ってものはけっこうお付き合いが難しいタイプの相手なんじゃなかろうか。

見たいように見たから、その帳尻合わせに必ずそうでない部分が同じくらいの分量やってくる。

私は愛を無限大としてしまっているから、うざったい愛も、面倒な愛も、押しつぶされそうな愛も引き受けなくちゃならない。

苦しい時に救ってくれる愛が、そこにある事にするのだからしょうがない。あるものはある。やっていくしかないんだ。


今日はこれから、草取り。

自然からの愛を受けると決めたから、梅雨時の植物たちの旺盛さに押しつぶされそうになるけれどお付き合いする。

人への愛も自然への愛もキャパオーバーになる事があって当然。だから、受け取る私の側で調節する。キャパはそこまで広くないけど、都合のいい愛も、そうでない愛も両方受け取るしかないな。私の世界観ではそうなっちゃう。しょうがない。それでも捨てられない。捨てたもんじゃない。



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