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社畜が骨折したら、引きこもりになった件。⑥

まず始めに。
この回だけ、症状をリアルに描いています。ケガに対してトラウマがある方、スプラッタ、特に先端恐怖症の方は、”受傷したら、肩どころか指先さえ思い通りに動かせなくなり、ハイネックどころか普通のTシャツさえ着れなくなったこと、あと、かなーりの内出血があったこと”を記憶したら、この記事を忘れて次回へどうぞ。次回は叫び声ぐらいで済むはずですが、それもダメな方は、次回も概要だけで次々回へお飛びください。


忠告しましたからね? 
先に進んでから心を痛めないでくださいね。


本気ですよ?
画像はありませんが、私にしてはかなり感情的になってます。


最後の通告になりますが、大丈夫ですか?
では、受傷から3時間後から、どうぞご覧ください。


受傷から3時間後。ようやく診断書を含む受付までこぎ着けた。
が、金額はわかっているのに財布が取り出せない。リュックのファスナーを右手で引っ張っているのに、左手の固定がうまくいかないようで動かない。会社から付き添いできてくれた同僚にお願いして、財布を取り出してもらったが、今度はお札が取り出せない。
左肩の痛みは、あまりないのに、布と布の間に指をいれることができない。

・・・・・・なんで?!
一瞬、頭の中が真っ白になった。
それまでは、理学療法士の先生の説明に従って、わりとすんなりと三角巾とボディーバンドを取りつけることができたのに、先生の介助がなくなっただけで、何もできなくなるなんて・・・・・・。

「大丈夫? 代わりにやろうか?」
その労りがなければ、多分、私は取り乱していた。付き添いを提案されたとき、断ろうとした過去の自分を心の中で思いっきり殴った。

・・・・・・その抑えきれない憤りはドーパミン物質のせいだ、と、これも先生から後日聞きました。極端な話をすれば、戦争中、拳銃で撃たれても致命傷にならないかぎり身体が動かせたり、心が恐怖心で折れないのは、これが原因なのだと。だから、内出血どころか、内臓に損傷を受けても破裂するまで気がつかない人がいるそうなので、いつもと違う何かに襲われたら、命大事に、その一言に尽きますので、素直に受診しましょう。

その後、処方箋の薬を受取ったり、袖を通すのは右手だけなのに、なぜか着ることができないダウンジャケットと奮闘したり、リュックを担ぐどころか持ち上げるることさえできない現実を痛感させられたりしながら、自宅に帰ることができました。その際、会社の温情もあって、自宅の最寄り駅まで付き添ってくださった同僚に、深い感謝を。復帰したら、即、お礼に伺いたいと思います。

それからの3日間は、何もしていなかったと思います。
記憶を振り返っても、いつもならマメに書いてある日記も、すべて空白。
私の自己紹介を兼ねて環境を説明すると、長期単身赴任中の夫、子どもなしの状況は、2LDKのマンションでひとり暮らしを満喫していました。それから数年がたち、実の両親が介護認定を受けたことをきっかけに同居を決意。両親は介護認定を受けたといっても身の回りのことはほとんどできるので、病院の付き添いと、シフト制のなか可能なかぎりの食事の支度と洗濯と掃除、それから異常時の連絡手段の確保ぐらいで、私は仕事に専念していました。

ですが、私が骨折したと知らされると、いつもは緩慢な動きだった母が皿洗いや洗濯をしてくれるようになりました。そのときの私の左手は食器は持てても保持ができないため、すぐに落としてしまいました。洗濯に至っては、腕をあげることができないため、右手一本では不可能でした。

それでも1~2回はコインランドリーに行きましたが、母曰く「無事に帰ってくるか心配だから行かないで」と、弱っている腰でランドリーバッグを持ち上げ、テーブルまで運ぶと、洗濯ものを畳みだしたのです。その姿勢に、私は感謝するしかありませんでした。なので、母はもちろん、父や兄、時間をやりくりして駆けつけてくれる主人に対して、旅行をプレゼントするため日々作戦を練っているところです。

で、何もしないどころか、痛みとしびれで眠れや食事もままならないまま、3日目の夜。ついに恐怖の時間が私の日常を奪いました。
着替えです。
あの日、仕事着から私服に着替えることはできたものの、熱と痛みが収まらず、お風呂どころか、下着さえ、あのときのままでした。でも2日後に控えている再診のため、1時間ちょっと交通機関を利用しなければならない。冬の最中の仕事だったので、体臭はそれほど気にならないと思いたいものの、痒みは少しづつ出始めていました。だから、口にするしかなかったのです。

「お母さん、お願いがあるんだけど・・・」
「なに?」
「これ、切ってくれない?」

露わにしたシャツの下に着込んでいたのは、ハイネックの極暖ヒートテック。真冬の外仕事の強い味方ですが、腕を上げられない私では介助があっても脱ぎ着できない天敵。つい先日、今年用にと買い替えたばかりなのに・・・・・・。

ジャッキという音が響く。
暖房が効いているから寒くないはずなのに、刃先が近づくにつれて身体が固まる。と、感じたときには、左肩に激痛が走っていた。
「肩がすくむのはキケンに対する条件反射でもあるから、痛みが辛くても、深呼吸と肩の上げ下ろしでしのぐように。どうしても我慢できないなら痛み止めをプラスしてもいいから、肩を振り上げないように気をつけてね」
これは先生から何度も注意されたことだった。新しい骨と今までの骨が癒着する前に肩を持ち上げてしまうと、骨が不自然な形で固定され、症状によっては手術が必要になるから・・・注意深く、慎重に、と。

・・・・・・でも、何もしていないのに、痛いって何で?!
感情を揺らさずにいるなんて、無理だ!

絶望が頭をよぎる。
しかし、それは地獄の開幕を告げるジャブでしかなかった。
痛くないはずなんてない。
ヒートテックと一緒に着られたブラの下から現れたのは、左腕の内側どころか、肋骨の半分以上におよぶ内出血のドス黒く変色した痕跡で埋め尽くされていたのだから。

現実を目の当たりにして、ようやく固まっていた脳みそが動き出した。神経が圧迫されれば痺れもでるし、内出血を押されれば痛みはでる。極論、安静にしているから痛まないだけで、上肢すべてに地雷をつけているようなものなのだ、と。

ハハッ・・・と乾いた嗤いが口から漏れた。
冷静に受け止めているつもりだった。でも、本当につもりでしかなかった。
右手一本で残っていたズボンを脱ぎ、軽めのシャワーをあて身体を洗った。たとえ、左手で蛇口をひねったり、右腕にボディーソープの泡を沿わせるだけで激痛に陥ったが、風呂からあがることはできた。

でも、着替えられなかった。
ブラは肩紐はかけられても、後ろのホックが止められない。ショーツは右手一本では固定できず、足が通せない。苦痛に顔を歪ませ、左手を添えて足先は通せたが、いつもなら何てことない布地の抵抗が鋭利な痛みになって突き刺さる。着替えているだけで、身体が冷えてくる。冷や汗なのか、時間がかかりすぎているせいなのか。その寒さで肩の筋肉が収縮し、鈍い痛みが加算される。

そこまで辛い思いをして、着ることができたのはショーツ1枚だけだった。
情けない。
でも、これ以上はできなかった。
私は大声をあげて、母を呼んだ。
母は慌ててやってきたが、嘘のように言葉を失った。
母の目の前で立ちすくむ私の肩には、身体を拭いて濡らしたバスタオルさえかけられていなかったからだ。
そう、今の私には、ひとりで着ることができる服が何もなかったのだ。

次回につづく。

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