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三国志の時代の都はどこ?(前半)

曹操の出自

後漢末はまさに三国志の時代なので、ある程度ご存じとは思いますが、曹操は沛国譙県、今の安徽省亳州市の出身です。

譙県は洛陽の南東で、洛陽とのちの南京の中間あたりになります。

彼の祖父の曹騰が後漢の宮廷の宦官となり、皇太子の勉強相手、そしてその皇太子が順帝として即位すると中常侍として、皇帝の側に仕えます。

その後、桓帝擁立に功があり費亭侯に封じられ、最後には宦官の最高位である大長秋にまで昇りつめます。

曹騰は宦官なので曹嵩を養子とし、曹嵩は官僚として出世を重ね、軍事部門の最高位である太尉となります。

この曹嵩が実の父親ですが、若き日の曹操はあまり評判は良くなかったようで。

曹操は20歳のときに洛陽北部尉となり後漢の官僚となります。これは警察のような仕事で、治安維持に奔走します。

その後、頓丘県の県令などを経て、黄巾の乱のときに皇甫嵩配下の侍従武官となり、転じて済南郡の宰相を務めます。

そして袁紹などとともに霊帝が定めた西園八校尉として皇帝直轄軍を指揮します。

都は洛陽から再び長安へ

ところが西暦189年に霊帝が崩御すると、混乱の中、董卓が洛陽を掌握し献帝を擁立。曹操たちは洛陽から逃走しました。

その後、袁紹を中心とする反董卓連合軍が結成され、曹操は行奮武将軍として董卓軍と戦いますが敗戦。

董卓軍は各地で反董卓軍を破りますが、董卓に反発する諸将が反発し、191年に董卓軍が袁術、孫堅に陽人で敗れると、董卓は洛陽を焼き払い長安に遷都します。

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