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蜀の滅亡後、2年後に滅んだ国は?

司馬仲達の長男

司馬仲達と張春華の間には司馬師と司馬昭の二人の息子がいました。

張春華は司馬仲達の地元の県令の娘で、司馬仲達の秘密を知った女中を切り殺したという逸話もある方。

249年、司馬師は私兵を3000人程度動員してクーデターの成功に大きく貢献しました。

仲達の死後、魏の全権を掌握し、252年には大将軍に昇進。

254年、皇帝側近の李豊や夏侯玄、張皇后の父親の張緝らが司馬師排斥のクデター計画を立てますが発覚。その後、皇帝の曹芳は廃位させられ、郭皇太后が推した曹髦(そうぼう)が魏の第4代皇帝となります。

翌年、毌丘倹(かんきゅう けん)と文欽が寿春で6万の兵力で反乱を起こしますが、司馬師は10数万の大軍を率いて文欽軍を撃破。

毌丘倹は斬首され、文欽は残兵とともに呉に投降しました。

実はこのとき司馬師は目に悪性腫瘍を患っていて、手術後すぐに出陣したため悪化し、毌丘倹の斬首後、7日後に死去します。

司馬仲達の次男

司馬師には息子がいなくて、弟の司馬昭の次男の司馬攸を猶子としていましたが、司馬師は自分の後継者に司馬昭の嫡子の司馬炎を指名したことになっています。

しかし、これは後世の創作と思われ、実際は弟の司馬昭が魏の全権を握りました。

のちに、司馬昭の後継者を決める時に、司馬昭は庶子の司馬攸を後継者にしたかったのですが、嫡子の司馬炎を推す声が強く、司馬攸を後継者にするのを断念したというのが本当のところのようです。

このことが後の八王の乱の遠因となります。

司馬師は「雅にして風彩あり」と評された人物でしたが、司馬昭は蜀を滅ぼしたことから、蜀びいきの三国志などの歴史書ではあまり良くは書かれていません。

249年のクーデターでは前夜まで知らされていなかった司馬昭ですが軍を率いてクーデターの成功に貢献しています。

253年、司馬昭は行征西将軍として蜀の姜維に対して長安に駐屯。姜維の撤退後、羌の反乱を鎮圧。

255年1月の毌丘倹と文欽の反乱時には洛陽を守備。司馬師の病状悪化により許昌に赴き、司馬師を看取りました。

司馬昭、魏の全権を掌握

皇帝の曹髦は司馬氏から兵権を取り返そうと画策しますが、曹髦に従うものはなく、司馬昭は司馬師の後を継ぎ大将軍・侍中・都督中外諸軍・録尚書事となり、翌年、大都督に昇進します。

257年5月、諸葛誕が呉と結んで寿春で反乱を起こしますが26万の大軍を率いて寿春城を包囲。諸葛誕側の諸将を少しずつ寝返らせたのち、翌年2月に寿春は陥落。

260年5月、皇帝の曹髦は司馬昭排除を掲げて挙兵。

皇帝が宮殿で挙兵というのも変な話ですが、皇帝守備兵以外の支持はなく、曹髦は宮殿南門付近で戦死。

皇帝の曹髦を直接殺した成済兄弟が三族皆殺しとなって決着し、曹奐(そうかん)が魏の第5代皇帝として即位しました。

蜀漢討伐

263年、司馬昭は、鄧艾、鍾会、諸葛緒に3方面から蜀に侵攻させ、11月、蜀の皇帝劉禅は鄧艾に降伏し、ここに蜀は滅亡しました。

もう蜀には魏に対抗する軍事力はありませんでした。

ちなみに同年10月、司馬昭はいままで固辞していた晋公、九錫、相国を受けています。

翌年、鍾会が反乱を試みますが配下によって殺害され、3月に司馬昭は晋王に封じられます。

曹操のところでも述べたように、「王」は皇族のみに与えられるものなので、魏から晋への王朝交代の前段階と言えるものですね。

265年9月、司馬昭 病没。享年55.

嫡子の司馬炎が後継者となり、同年12月、曹奐に禅譲を迫り魏は滅亡し、晋が建国されました。

蜀の滅亡後、2年で魏が滅んだということを曹操が知ったら驚いたでしょうね!

晋の都は洛陽のまま。

ちなみに南朝の晋と区別するために、歴史家は西晋と呼びます。南朝の晋は東晋。

南北にならないのは西晋は中華統一王朝だったからでしょうね。洛陽が西で東晋の都の建康は東ですから。






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