「優しすぎる」ってなんだろう
「角さんは、優しすぎるよね。」
いろんな人に、いろんな場面で、何度も言われてきた。その言葉に、いまいち腹落ちできてない自分がいた。
・本来ポジティブであるはずの「優しさ」が「過ぎる」と、なぜネガティブになってしまうのか?
・そもそも「優しさ」とは?
この問いに対する現時点での整理をnoteに残しておきたい。
いろいろな「優しさ」
「優しさって何?」を考える手始めに、いろいろな「優しさ」を思いつくままに書いてみた。
■包み込む「優しさ」
相手が弱っていて辛いときに、状況に耳を傾け、感情に寄り添い、辛さを分かち合い、目の前の相手をそのまま受け止める優しさがこれだ。
「大丈夫?」「大変だね」「わかるよ」「辛いよね」「頑張らなくていいんだよ」
■見守る「優しさ」
相手が健全に苦悩しているときに、敢えて深く関与せず、相手の可能性を信じ、ただ見守る優しさがある。
■支援する「優しさ」
相手が健全に苦悩しているときに、積極的に関与して、相手の可能性を信じ、手を差し伸べ、伴走する優しさがある。
■鼓舞する「優しさ」
相手が健全に苦悩しているときに、状況に耳を傾け、感情に寄り添い、苦悩を理解した上で、相手の可能性を信じ、叱咤激励する優しさがある。
「大丈夫?」「大変だね」「わかるよ」「辛いよね」「でも、まだこんなもんじゃないから頑張れ!」
■厳しくする「優しさ」
相手が健全に苦悩しているときに、状況に耳を傾け、感情に寄り添い、苦悩を理解した上で、相手の可能性を信じ、敢えて耳の痛いことを言う優しさがある。
「優しさ」にまつわる失敗
これらの「優しさ」に価値の差分はなく、相手の置かれている状況によって使い分ける必要がある、という話だ。過去を振り返ると、自分は随分と過ちを犯してきた。
弱っている相手のSOSに気付くことができず、「相手の可能性を信じて叱咤激励する自分」に酔って、「まだ行ける、もっとやろうぜ!」を浴びせ続け、相手が疲れてしまったことがあった。
逆に、乗り越えれば大きく飛躍するであろう壁にぶつかる相手に対し、我慢しきれず手を差し伸べて支援しすぎて、本人の成長機会を奪ってしまったこともあった。
本人にとっての本質的な課題に気付いているにも関わらず、相手に嫌われることを恐れて、厳しい指摘から逃げ、成長機会を奪ってしまったこともあった。
得意な「優しさ」、苦手な「優しさ」
包み込む「優しさ」は、得意だ。話を聞くのが苦にならない性格もあり、何より自分が傷つくことはまずない。
見守る「優しさ」には、胆力がいる。ともすれば、なぜ力を貸してくれないのか、と自分が嫌われるリスクがある。これは、比較的苦手だ。
支援したり、鼓舞したりするのは得意だ。
一方、厳しくするのが一番苦手だ。包み込む方がよっぽど楽だ。自分が嫌われるリスクが伴うからなのか、発揮するにはとても勇気がいる。
「優し過ぎる」の正体
・その優しさは、まっすぐ「相手」だけに向かっているか?
結論、この問いに尽きると思う。
「優し過ぎる」とは、見守る「優しさ」や厳しくする「優しさ」が必要な場面で、自分が嫌われたり傷ついたりすることを恐れ、自分の気持ちを優先して他の「優しさ」に逃げてしまう弱さのことなのだろう。
そうは言っても、自分が傷つくリスクを避けたい気持ちは誰しもあるので、なかなか難しい。
「優し過ぎ」を脱出し、「本物の優しさ」を手に入れたければ、ここぞの場面で相手を思える度量と、その場面における適切な「優しさ」を見極める目利き力の両方が必要だ。
誰に対しても「本物の優しさ」で向き合うことができる、懐が広く、愛に溢れた人になりたい。
おわり
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