【短編小説】不幸自慢をする私たちは、健やかな安寧に満たされている。

2023年6月7日小説

**



"不幸自慢をする私たちは、健やかな安寧に満たされている。"

学生らしい文章が読みたいと言った直後にこんな一節から始まる小説を提出するあたりが、ことさら彼女らしかった。

「どう、センセイ。」
そう問われて、A4用紙2P分の短編小説の全体像をぱらっと確認する。まるで誰かの独白文のような、会話文もなく改行の少ない、字面を眺めただけで読み手をえぐってきそうな得体の知れなさ。それが返って読み手の目を惹きつけるのすら、彼女の思惑通りなのだろうか。

でもそんなわけはないから、まあ待ってよと断って、近くの椅子に腰を下ろした。だって、自分より5つは年下の十代の学生が、どれほど世の中を理解して悟っているというのだろうか?

イラスト部が打ち合わせをしている視聴覚室の隅で、彼女の新しい小説を読む。

ぺらりと片面印刷の用紙をめくって、後半も読み進める。つい唸ってしまったのは、教室ではいつも無口な彼女のなかに、これほど鋭い言葉が眠っているのをうまく想像できなかったからかもしれない。
節々に幼さが残るものの、終始一貫した視点で描き切っている。それが正しいか、世の中のすべてを映しているか、なんていうのは些細なことのように思えた。そんなことよりも、自分ほども生きていない高校生がこんなものを書いて、自分はこの先も書けそうもない、という直感が何だか恐ろしかった。

「どう、センセイ。」

長い髪を真っ直ぐに下ろした彼女が、一列前の席に座ってこちらの反応を待っている。

「いや、そう言われても俺小説のことはよくわかんないんだけどなあ。」

歯切れの悪い返答に、あからさまに不満そうな顔をする。しかし実際にいち新聞部部員にすぎなかったのだ。それが、教員実習に来てみればあれよあれよという間に文芸部担当になってしまったのだった。

「そうだなあ。マセてんなー、とは思ったかな。」

どうにか感想らしきものを口にする。友達になら「やべーなお前」と流して終わりなのだが、生徒に対して適当な言葉を選ぶのは難しい。

「マセてていいんだよ。」

にまあと笑って、彼女が嬉しそうに俺の手元を覗き込む。文法や表現の間違いにだけ軽く赤ペンを入れたのが、それがどうやら気になるらしかった。自分の手元に引き寄せて真剣に赤ペンを確認し始めるところを見るに、教室での真面目な一面は演技ではないらしい。

あーそっかー。じゃあここも変えようかな、などと呟きながら、彼女が更にペンを入れていく。

この子は。
この子の、内側は一体何で構成されているんだろう。教室で吐き出せない悩みでもあるのだろうか。それとも、その大人びた思考を持て余して、いつも教室の後ろの方でクラスメイトの背中をじっと眺めているんだろうか。

「センセイ?」
「ん? 何?」




――そういうセンセイの若い感じ、嫌いじゃないよ。――

頬杖をついた彼女がこちらの表情を覗き込む。
「え、何どういうこと?言っとくけど俺の方が6つも上だかんね?」


あははは、と彼女は楽しそうに笑っていた。







***



『健やかな安寧』

2年3組 小野詩織

不幸自慢をする私たちは、健やかな安寧に満たされている。
目の前には避けられない不幸がある。けれどそれは、もっと醜悪で複雑な、質の悪い不幸に簡単に負けてしまう。塾の先生が嫌味を言ってくるのも、模試の成績が振るわないのも、付き合っている相手が長電話を嫌がるのも、逆に連絡を強要するのも、友達が些細な家庭の不幸を自慢してくるのも。

バイトに出掛けると勉強時間の心配をしてくる親も、実力に見合わない一つレベルが上の大学を熱心に進めてくる先生も。成績が下がって部活中にきつく当たってくるメンバーも。私立の推薦が決まって急に学園祭に熱心になる親友も。

目の前に、避けられない不幸がある。けれどそれは、きっと本当は大したことではないのだ、とそれぞれが何となく“わかって”いる。でももしそうだとしたら、この不幸はきっと出口を失ってしまう。
そうして私たちは健やかな安寧を求め始める。私は不幸だ、あなたも不幸なのだ。だから、この水底で、一緒に吸えない息を吸っていましょうよ、と。

あなたは不幸だ。でも私も不幸だよね。

何でも持っているあの子にはなれない。何でも持っているあの子の明るい道には、今更どう足掻いてもたどり着けないし、何でもとまで行かなくてもそこそこ満たされているあの子のようには、うまく生きられない。
何にも持っていない私にはこの暗い道しかないのです。普通の道を通れたらそれ以上は望まないのに、普通さえ手に入らないなんて、この先ずっとなんて、耐え続けていられない。

だから、この不幸が普通であるということを確認したいのです。受験で上手くいかないのは普通です。成績を伸ばすために寝不足を耐えるのはよくあることです。彼氏の冷遇は共有して慰め合うものです。ううん、それでも足りないから、普通の不幸が正しいのだと信じていたいのです。受験で忍耐をつけることはこの先にも役立つのです。睡眠という目先の欲に負けて将来の希望を捨ててはいけないのです。冷遇されないような十分な工夫や言動を、成していかないといけないのです。

皆で乗り越えましょう。皆、同じ不幸を携えた運命共同体なのだから。

そう照らし合わせることで、きっと私たちは日々の不幸を和らげることに成功したのです。既存の環境を壊し殻を割って新しい自分になる、そんな決意も勇気も行動力もないから、きっと明日もこの不幸に囚われたまま。。そんな苦しい現実なんて必要ないのです。私は不幸ではない、皆と同じ幸福な日々を過ごしているのです。
だからほら、不幸は分かち合えばいい。あなたの不幸は、確かにあなたの不幸です。私の不幸も、大したことじゃないかもしれないけど、それでもあなたと同じ不幸で、あなたと同じ、幸福の一場面としてしまいましょう。ね?

不幸に共感できない、恵まれたあの人はそっとしておけばいいのです。この不幸に共感してくれる、平凡なあなたがそこにいてくれたらそれだけで息ができる気がしたのです。逃げられない不幸に埋没する一日を、受け入れられる気がしたのです。その方が、より根深い不幸に敗れて息ができないのより、ほんとうの幸福を求めてもがき続けるのより、随分と穏やかじゃありませんか。


不幸自慢をする私たちは、きっと健やかな安寧に満たされている。




***


この作品のイメージ、および書いているときに聴いていた曲


ふと思いついた作品です。
後書きはこちら。

https://note.com/bokuno_rakugaki/n/nf3a25d5eb672


最後まで読んでくださりありがとうございます。読んでくださったあなたの夜を掬う、言葉や音楽が、この世界のどこかにありますように。明日に明るい色があることを願います。どうか、良い一日を。