熾火

2022/11/30後書き兼散文。
(前半が散文、後半が後書きです)



小説を書くとき、一番楽しいのは書いているときでも、読んでもらっているときでもない。
自分の描いた世界を、どう解釈してもらったのか。自分は、思い描いたものをどんな風に物語に落とし込んだのか。それを共有するときが一番楽しい。僕はそう思っている。

目の前で読んで感想をもらうのでなければ、それは後書きに相当する。

高校の時、文芸部に所属して小説を書いていた。一番楽しいのはやっぱり、読み合うときだった。批評会と言って、先に書いた小説を印刷して共有しておき、部活の時間に読み合わせをする。各自感想や意見、質問、訂正箇所等を挙げてきているので、1行目から赤ペンで直すこともあれば、文法的なお直しはほとんどなく、設定やタイトルの違和感など、もっと大きな枠組みで議論することもある。

この設定には、どんな意図があったのか。ここで伏線回収できているのが凄くいい。ここの発言は、1ページ目の発言と矛盾しないか。ここの言い回しがわかりづらかった。この主人公、健気でめちゃくちゃ可愛い。戦闘シーンがリアルで臨場感があってさすが。3点リーダーがひとつしか入ってないよ。キャラ名の漢字が途中から変わっちゃってる。形式名詞はひらがなで書くのが基本。

部員のみんなが、どんな風に自分の作品を読んできてくれたのか。どんな風に感じてくれたのか。それがわかるだけじゃない。入れ込めなかった裏設定や、書ききれなかったその先を、問うてくれることもある。

この子はなぜ、この場面で泣いたのかな?

実は、わかりづらかったかもだけどここは冒頭の伏線回収になっていて…

ああ〜!そう言うことか!
なら、ここにもそういう描写入れた方がいいんじゃない?

そんな風に、作品の完成度を上げていったり、作品を深く読み取ってくれたりする時間が、とても好きだった。

小説は、それだけでひとつの作品だ。けれど、作品には裏側がある。何を描きたかったのか。何に拘ったのか。そういうのは、書き手の勝手であって、読み手はただ読んだものが正解なのだと、わかってはいるけれど。けれど、書いたら読んでほしくなる。書いたら、言いたくなってしまう。ここが中心義なんだよって。ここのシーン、お気に入りなんだよって。ここ、上手く書けた気がしてるんだって。または、ここちょっと工夫したんだけどどう感じた?とかって。

だから最近、よく後書きを書きます。読み取ってくれるって、知っているから。読んで、その世界観を考えてくれる人がいるなら、僕も後書きを書きたくなる。そっと教えてくれるとき、それはそれでとても嬉しいけれど、僕は僕でやっぱり、後書きを書きたくなる。


ということで、自己満足の後書きです。ネタバレを含みます。読んでいない方は本編(ひとつ前の記事)を先に読むことをおすすめします。



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短編小説『生きろと息を吹きかけた』後書き。



タイトルだけ、ふっと浮かんだ。

ーーこころに、生きろと息を吹きかけた。ーー

…で、小説にすることは決まったのだけど世界観について考えることになった。
これは多分、自分に言い聞かせるようなフレーズだ。誰かに言われたんじゃなく、自分でそう思うシーンなんだろう。
そうであるならば、必然的に主人公の立場、性格、がぼんやり浮かんでくる。
つまり、

「ついさっきまで落ち込んでいた」でも「自分で自分を前向きにさせることができる」

そういう人物であるということ。
なら、その子は普段活力に溢れた人なのかもしれない。社交性はそこまでないだろう、人と関わるのが好きな人なら、「こころに息を吹きかけ」たりせず他人とわいわい過ごしたり相談に乗ってもらったりして乗り越えるだろうから。

だから僕は、主人公の子をこんな風に想像した。

ネコや植物に囲まれて、長閑だが(その子にとって)質の高い暮らしている。でも何らかの理由で気力がなくなってしまった。と、その子にはタイプの異なる友人がいる。気遣いのできる(空気をよく読む)やつではないが、憎みきれない明るくあっけらかんとした子。
その子のふとした言動で、主人公は(自分で)前向きになろうと思う(元の生活に戻る)のではないか。

ただしこの展開のままでは、少しだけ違和感が残る。

息を吹きかける、という表現だ。

「大天使の息吹」ではないが(知らない方は検索してみてください、出てきます)、生命力を吹き込む、というニュアンスのある表現なのは確かで、実際そうなのだけれど。ただし、長編でも短編でも関係なく、やはり「吹きかける」という表現には伏線が必要だ。例えば、気分転換に出かけた久しぶりの登山で、山の頂で雄大な景色を眺めながら感じる、火照った体に心地よい風。北海道の広い湿原や平野を見渡して、草花を揺らす穏やかな風(つまり吹きかけられる、シーン)。
あるいは、熾火(おきび)に風を送ったとき、ふわりとあがる小さな炎(つまり吹きかけるシーン)。

何か、主人公が「風によって舞い上がる生きるちから」のようなものを連想するためのシーン。それが入ると、きっと自然にタイトルのフレーズに繋がる。

そう思ったから、今回は熾火(おきび)のイメージを借りることにした。生き物たちと暮らしている(自炊もしているであろう)子だから、多少のそういったスキルがあってもいいだろう。



ということで、こういったお話になりました。
熾火は本当に綺麗です。夜、街の明かりに遮られない星空と同様に、点滅するかのようにちろちろと揺れる、隠された光源。あの暖かさに、色合いに、惹かれて眠るのが惜しくなる。

小学生の頃、一時期毎週のようにキャンプに連れていってもらいました。毎回、一本だけジュースを買ってくれるので、小さなスーパーの飲料コーナーで悩んで悩んで、選んだジュースをちびちび飲みながら、年中鍋を食べました。BBQは定番のように思うけれど、ご飯を炊くのは面倒だし肉もコストがかかりがち、火力も必要。暗い中焼き加減を確認するのも面倒(ランタンのオレンジの灯りでは焼き加減はわからないのでLEDのヘッドライトでいちいち確認することになる)。なんてことで、うちはいつもぶっ込み鍋でした。餃子や焼きそば麺、白菜なんかを鍋に入れて、数分すれば食べられる。簡単です。

8月はやはりシーズンということで混み合うので、その時期を避け、9月以降の秋や、寒さの緩んできた3月以降に行くことが多かったように思います。


近年はアウトドアやキャンプのブームが来ていますが、初心者の方はマナーやモラルに気をつけてくださいね。バイク旅(ひとりから数人のことが多い)の方は早く寝て早朝から発つことが多いし、釣りや登山といった別のアクティビティのために前日泊している方も朝が早い。

トイレや洗い場の近くは便利だけど他の人も行き来するので少し居心地が悪いし、キャンプ場によっては夜間もライトがつきっぱなしなので眠れない。奥すぎるところに設営すると静かだけど不便。花火等はキャンプ場のルールに従いつつ、モラルをもって(学生グループとか初心者のファミリーとかだと、自分のテントに火花が散るんじゃないかとハラハラするそうです)。
ゴミは全て持ち帰る。火は必ず消してから帰る。残飯を流しに捨てない。などなど。

…なんてルールをたくさん書いてしまったけれど
、キャンプはとても楽しいです。少しでも伝わっていたら嬉しく思います。




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最後まで読んでくださりありがとうございます。



良い一日になりますように。





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19:13 追記

普段、知り合いでない方の放送をほとんど聞かないのですが、たまたまこの歌を歌っていらっしゃる方を見つけて。自分でも歌いたくなったのです。雑音がかなり入っているし主に自分用です。今日ワクチン打ったので明日お休みしている間に聞きたくて、頑張って今日中に歌いました…

小さい頃から、なんだか好きな曲なのですよね。言葉選びも、音も好きです。


最後まで読んでくださりありがとうございます。読んでくださったあなたの夜を掬う、言葉や音楽が、この世界のどこかにありますように。明日に明るい色があることを願います。どうか、良い一日を。