キツネリス

本当にたまたま、あなたが海に流したばかりの、水面を漂う瓶を見つけた。

暫くひとりでいるつもりで、「僕は"ここ"にいます」「また帰ってきます」と、置き手紙だけそっと残すつもりで、窓を開いた。



頬を伝うものがあった。

痛いんじゃない。誰のものともわからぬ血を、私の身動きを取れなくさせていたものを、確かに洗い流した。全てではないけれど、確かに。

あったかくて安心した。そんな風に感じる自分を、僕がちゃんと受け入れられるかはまた別かもしれないけれど。

僕がサンならあなたはアシタカで、私がキツネリスならナウシカで。もし私がナウシカならあなたはあの流離う剣士で。


怖くない。ほら、怖くない。
怯えていただけなんだよね。


あなたの言葉から、そんなことを連想しました。



ここから先は余談です。連想です。手紙を読んだ後の、思考の断片です。



僕は、誰かに向かう「緩やかな引力」にあてる字には、いくつかの異なる質感があると思っています。

動詞として使う「好」は軽い。でもその分、使いやすい。けれど深い意味は込めにくい。何かを込めるならば、僕は形容詞として〇〇しい、と表現します。


名詞の「恋」、形容詞の「恋」は、ベクトルが相手に向いていて勢いと強さがあり、自分から離れたところでも強く残る(〇〇しい、という形容詞はまさにそのイメージ)。基本的には相手と感情の向きが「→←」(等しい重さで両思い)であることを望むのではと思います。


「愛」は、少しだけ違う。名詞も、形容詞も。ちなみに僕は、形容詞として用いる場合必ず「お」を入れる。〇〇しい、だと音が足りない。しっくりこない。僕らしくない。だから私は、「愛」には〇〇おしい、をあてる。暖色の世界で、オーロラのように垂らされたベールの内側で、薫るあたたかさ。


「愛」は僕にとって、温かいスープから立ちのぼる湯気のようなものです。冷たいプールから出たときに背中を温める陽の光みたいなものです。水風呂に継ぎ足すあったかい温水のようなものです。ストーブの前の空気の暖かさのようなものです。ゆるく自分の身の回りにだけ漂って、遠くには行かない。行けない。誰かを追いかけて作用するのではなく、代わりに「おいで」と自分の腕の長さの範囲でだけ、立ちのぼる温度。


あなたがその字をあててくれたことがとても嬉しい。たぶん誤解もしていない、""や「」なしでも、ちゃんと伝わりました。


僕はあなたほど強くはないと思う。あなたの言葉通り、きっとあなたの方が防御力は高いだろう。


でもどこか、ほんの少し、あなたは私によく似ています。似てないところもきっとたくさんあるし僕の方が弱くて怖がりだけど、でもどこか、似たものを感じる瞬間があるのです。



月の裏側についての返信をまとめるなら、僕はワンピースの人のことをたくさん書くことになるかもしれません。

だから迷っていました。

僕にはそれが正解なのかわからないからです。でももし、正解も何もないなら、誰かを”刺し殺してしまう”ことがないなら、僕はいつか、僕の浄化装置に入りきらない、この大きな感情を海に流して、結晶だけを手元に残しておくかもしれません(話がずれていてそれは違う、と思ったらそう言ってください、それを理解するくらいの強さは僕にもあります)。



noteを始めたばかりの頃なら、言葉にして躊躇うこともなく海に流していたでしょう。

でも今僕は目隠しをされたまま、どうにか歩いているだけです。海に流すのが良いのかもわかりません。でも誰かひとりに聞いてもらうためだけに、言葉にすることもできませんでした。


きっとこれはエゴです。誰かに聞いてほしいから、月の裏側の返信にかこつけて聞いてほしいのだと思います。



『大豆田とわこと3人の元夫』というドラマがあります。その中で一番印象に残っているフレーズがあるのです。元夫たちそれぞれに好意を寄せていた3人が集まって、元夫たちと6人(もしかしたらとわこも入れて7人だったかもしれない)で食事をしていて。それぞれ"好きだった"ところを語るのです。

解散した後、「そんなに好きなら、今追いかけたらきっとまだ間に合うよ」とある元夫が言った。そうしたら、「もう遅いよ」と、ある子が言うのです。

「(誰かに話した時点で)もう遅いよ。」

「自分だけが知っている、秘密だったんだから」


もし、僕にとっての"恋愛"の、「恋」だけ取り出したらこれに近いと思います。逆に、それでも薫るあたたかさ、誰かに言って海に流して「恋」を手放しても残る「肯定」とも似た感情に、私は「愛」をあてるのです。



私はあなたに、〇〇おしいの言葉をあてませんが、「世界観に触れていたい」とは思っています。これは最も広く緩やかな意味での、僕にとっての「愛」にあたる感情です。



私の中に言葉が湧いてくるまで、もう少し安定して歩けるようになるまで、僕は"ここ"にいます(あなたの文章を読む前から、近いうちに、翔を知る人がこの場所にたどり着けるように繋げておこうと思っていました)。





もし良ければ、あなたのその文章を、消さずに残しておいてもらえませんか。

あるいは私の手元に置いても良いでしょうか。



言葉をありがとうございます。あなたが僕より強くてよかったと、思ってしまう自分がいます。「不幸」という言葉を、使ってしまってごめんなさい。



あなたが言葉を残してくれました。私は翔を手放すほど傷だらけというわけではないようです。


言葉を、思いを、伝えて下さってありがとうございます。




こうした言葉たちさえ、正しいのかわかりません。なぜ、正しさを追い求めるのかも、よくわからなくなってきた。ただ嫌われたくないからかもしれない。否定されたくないからかもしれない。それが「ちがうよ」と思うなら、そう言ってください。


きっと僕が抱えているのは闇ではなく、ひとりうずくまる”わたし”の弱さです。誰かに頼って歩きたいわけではありません。立ち上がれば、わたしはたどたどしくともひとりで前に進むでしょう。




だから、キツネリスのイメージはお互いきっと的を射ているのではないかと、そう僕は感じました。




最後まで読んでくださりありがとうございます。読んでくださったあなたの夜を掬う、言葉や音楽が、この世界のどこかにありますように。明日に明るい色があることを願います。どうか、良い一日を。