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「壁の男」

貫井徳郎さんの本が好きです。高校の友人にすすめられて読んだ「慟哭」。辛すぎて痛すぎてこの本に「慟哭」以外のタイトルはないな・・・と呆然としました。この人の本が好きだ!と思ったら、その時に出ているであろう作者の本を買いあさり、とりあえず満足して少しずつ読んでいます。

最近、ふと読んだ貫井さんの本がとても面白かったので、また貫井熱が再燃し家にある本を片っ端から読んでいました。私の感想は「本当にこの人は主人公に一つの希望も未来も与えないんだな」というもの。どんなに過酷な内容でもたいてい小説って、少しは未来につながっているような気がするのです。混沌の中で叫ぶシーンで終わったとしてもエピローグがあったり、伏線で未来を感じさせてくれたり。
私が読み落としているだけかもしれないけれど、貫井さんには全くそれが感じられないのです。そしてそこが好きな理由です。

「この本面白かったーーーー」と心の底から思う本は、たいてい読み終わったあとに「これ面白かった!読んで!」とおすすめします。家族がそばにいるので、その時にそばにいる人に渡す。あるいはもう一度読み直す。たいてい本は一読したら読み捨てる感じで、読み終わった本入れの中に無造作に入れていくのですが「面白かった」本は本棚に戻されます。更にそれより上級は再読、そしてしばしば呆然とします。本の中の細かいことについて色々考えるわけです。

「壁の男」ある田舎町で、家々の壁に描かれた拙い絵。それを描いた男の話です。
どうして拙いながらも、壁に絵を描き続けたのか。周りの人々も自らその絵を描いてくれとお願いするのですが、どうしてそんな芸術とはほど遠い絵を自分の家の壁に描いて欲しいと願うのか。
「それはこういう理由だったので~~~す」みたいな明確な答えはなく、でも実は最初から提示されていたのかもしれなく、ただ、それを描いた男の生きてきた道が少しずつ明らかになっていくのです。

一つだけ腑に落ちないことがありました。
この男の絵は「お世辞にも上手いと言えるような絵」ではないらしいのですが、この人のお母さんは絵を描くことを趣味以上にしている、学校の美術の先生でした。たいていお母さんが絵を描くことが好きあるいは上手となると、その子供も上手、あるいは好きになりそうなものですが、男はむしろ「絵を描けるお母さんの子供」であるにも関わらず、その才能がないことに少し「・・・」な気持ちがあるのでしょう。また、男のお父さんも少しずつ、自分の妻に絵を描く才能があることに嫉妬し、その気持ちが表面に滲みでてくるのです。
そんな中、夫のご機嫌をとりながらも「夫が作ってくれたアトリエ」で感謝しながら、絵画教室をやったり自分の絵を描くのですが。
 「才能があることは人に優越するものではない。」とお母さんは息子に伝え、遠回しに夫にも伝え、だから絵を描ける私は少しもあなた方より秀でてるわけでも無く、あなた方も劣等感に苛まれる必要はない、というような話をするわけです。その下りはすごく好きな部分なのですが・・・。
 ところが、小説の最初に「父が早世してから母は絵を描くのをやめた」と書いてあるのです。夫が嫌な思いをしていることを知りながらも、それでも描きたかった絵。夫が死んだらなんでかくのやめたの?と聞きたい。

私が弾くピアノをうちの夫はうるさいと思っているでしょう。私が、というよりは居間にピアノがあるため大好きなテレビをみることができないから、娘や私がピアノを弾いているとテレビが見られない→やだなあ、程度だとは思います。私は「そんなの知るか!」という性格なので弾きたいときは弾くタイプですが、そんな私でもわざわざ夫が居間にいるときにピアノを弾くことはしないし、いない時間もあるわけですからその間に弾くようにします。
もし、夫がいなくなったら大手をふっていつでも弾くでしょう。イヤだと思う人がいないわけですから。

ですから、このお母さんが、夫が嫌な思いをしていることを知っていたのに
生きている間は「ご機嫌をとりながら」でも続けたのに、旦那が亡くなった途端、絵をやめた、ということが腑に落ちないのです。
 夫がいてこその絵だったのかなあ。

そして、やはり私には希望があまり見えないように思えました。いつもの貫井さんよりは、少しはあったかな・・・・。

深すぎる傷を負った孤独な男の話を読みたかったら是非。

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