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全か無か、スマホ前かスマホ後か

大学の2年生ぐらいで生理学という学問を習いました。生物の基本なのでしょう。よく聞く台詞「こんな勉強、社会に出たら役に立たない」。生理学に関しては全くあてはまらず、私が仕事している上では大いに役に立つ、というか「生理学をもっと勉強すべきだったな」とひしひしと感じるものです。そして当時は何を言ってるのかさっぱりわからなくて、わかっている同級生に部室で夜中まで教えてもらってどうにか腑に落ちたという記憶があります。

その生理学の中で一番最初に覚えてずっと記憶に残っていること。それが「全か無かの法則」。「刺激による反応は、反応しないときは一切反応せず(無)、反応するときには完全に反応し(全)、その反応にはこの両極端にしか存在しない」というものです。
私が今まで生きてきて、自分自身の考え、行動がこの「全か無かの法則」だなと思うのです。やるかやらないか。あるかないか。その中間はなし。

ところで、先日東京に行ってきました。行ったことのない場所、数カ所に行かねばならなかったためスマホは必須です。昔、どうやって東京の街を歩いていたのか不思議でならないほどスマホのナビなしでは目的地には辿り着けません。ただ、ワタシルールとしては歩きスマホはしない、というか公共の場でスマホは見ないというものがあります。本が好きなので公共の乗り物に乗ったり、どこかで待ち合わせしているときや病院の待合室など、手持ちぶさたな時はほぼ本を読んでいます。これは昔からの習慣ですから、スマホを見ないようにするための手段ではないのですが、ワタシルール的にも良いわけです。ところが、どうしても次の乗り換えがわからないとか、仕事の連絡をせねばならない時など、そのような時は公共の場でスマホを触ってしまい、それはワタシルールに反するのでとても不満なのです。

 と、勝手に自分の中で葛藤しているのですが、これが東京の街を歩くと
その葛藤が塵に感じるように、ほぼ全員と言っても過言ではないほどの確率で電車に乗ればスマホ、電車を待っていてもスマホ、食事をしていてもスマホ、電車から降りるときも乗るときもスマホ、大人数が交差するスクランブル交差点でもスマホですよ。実際人はぶつかり合ってるのでしょうが特にかまわないのかな。まあ、なんか、すごいな。と思って帰ってきました。

紀元前、紀元後はイエスキリストの生誕が基準と昔習いました。今は違う説もあるのでしょうが、イエスキリストってすごいな。と習ったときに思いました。その人が生まれるか生まれないか、全か無かで時代がかわる。その基準になる。一人の人の生誕で。

イエスキリストと同じ土俵にあげてはいけないのでしょうが、スマホって時代変えたよなと思ったわけです。

スマホ前、スマホ後。

無い時代はもはや考えられない。その浸透するスピードと人数と依存度を考えたらなかなかの存在です。
だからなんだと言われればそれまでなのですが。
キリストの生誕により人類は救いを得て希望をもち、時には戦争をももたらした。
スマホは何をもたらしたのかなー。たぶん何もないんだろうな、と思いながら片手にいつもスマホを持つ自分に不満です。

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