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らしくない人【チャペル】

《はじめに》

キリスト教会の牧師が大学のチャペルや幼稚園で話している2000字前後の短い聖書のメッセージです。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 マルコによる福音書14:12〜16

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》「らしくない人」

 去年、私のTwitterのタイムラインで、ある人の発言が炎上する事件がありました。何についての炎上かと言うと、キリスト教会の牧師からなされた、同性愛者に対する差別的発言です。私自身も牧師ですから、同業の仲間によってLGBTQへの差別がなされたことになります。私のフォロワーである何人かの当事者も、その発言に心を痛めていました。

 傷つく人が広がらないよう具体的内容には触れませんが、炎上した発言は「性自認(自分自身が自覚する性)や性的指向(性的な欲求や感情の向く対象)が、自らの意志で変えられる、選択できる」という誤認と無理解によるものでした。残念ながら、キリスト教会の中では、今も、誤った知識や理解のまま、差別を正当化しているところがあります。

 そして厄介なことに、一般的な男女の枠組みから外れたように見える人を「信仰的な理由から」断罪したり、否定したりする人たちがいます。「神様は人を男と女に創造されたと書いてある(創世記2:27)」「男同士で寝てはならないと書いてある(レビ記18:22)」「だからLGBTQは自然な性じゃない、認められない」と言うんです。

 キリスト教の歴史において、こんなふうに、ある人々が「罪人」として排除されたり、排斥されたりすることは、珍しくありませんでした。たとえば、もともとイスラエル人以外の異邦人(外国人)は、それだけでもう、神様から見放される対象でした。救われるはずのない、罪人だと思われていました。

 なにせ、聖書の一部に、神ご自身から、異邦人との接触を禁じたり、戒めたりする言葉が書かれていたからです。今なら、外国人という理由だけで罪人と捉えてしまったら、「差別だ」「偏見だ」と言われるでしょうが、かつての信仰者からは、こう言われたでしょう。「だって、聖書に書いてあるじゃん」「神様に言われていることじゃん……」

 ところが、神様から遣わされたイエス様は、神様が残された言葉、聖書に書かれたことに反して、異邦人と接触し、罪人と呼ばれる者と食事をし、触れてはならない病人たちを癒しました。さらに、かつてのユダヤ社会では「奇妙(クィア)に」見えた、一般的な男女の枠組みから外れたように見える人を、重要な役割に用いました。

 先ほど読まれた聖書箇所は、イエス様が殺される前、弟子たちと最後の晩餐をするために、会場が用意されていく重要なシーンです。ところが、ここに出てくるのは、男女の規範を重視する人々からは、許容し難い人物でした。男性なのに、男性らしくない、立派な家の召使いなのに、それらしくない振る舞いをする人物でした。

 えっ、そんな人いる? と思ったかもしれません。誰かと言うと、13節の「水がめを運んでいる男」のことです。なぜ、彼が一般的な男女と違って、奇妙に見えるか分かるでしょうか? ヒントは彼の運んでいるものです……そう、本来「水がめ」は男性ではなく、女性が運ぶものでした。男性が水を運ぶ場合は、皮袋に入れるのが自然です。

 たとえるなら、男性が女性ものの鞄を持っている。男性が日傘をさして歩いている、といった感じです。かなり目立ちます。おそらく「あいつ、男なのに水がめを運んでるぞ」と周りからジロジロ見られたでしょう。だからこそ、イエス様から「水がめを運んでいる男についていけ」と言われて、弟子たちはすぐ、彼を見つけることができたわけです。

 もしかしたら、単に、皮袋を持つことのできない貧しい家だったから、代わりに水がめを使ったのでは? と思うかもしれません。しかし、この家の主人は、裕福な家の象徴であった「二階建て」それも「席が整った」つまり、「敷物が敷かれた」豪華な部屋を所有していた人物でした。とても、皮袋を買えない貧しい家とは思えません。

 逆に、水がめしかないのなら、男性の召使いではなく、女性の召使いを行かせるのが普通でしょう。「あの家の僕は、男なのに女のように水がめを運ばされていた」と噂されるわけですから。奇妙なことに、当時の「男女」の枠組みから外れるあり方を見せたこの男性は、弟子たちを最後の晩餐が用意された家へ、案内することになりました。

 その晩餐は、キリスト教の聖餐式を形作った「主の晩餐」です。最初の聖餐式が、周りからは奇妙に見られる「クィアな」振る舞いをする人によって、用意されたわけです。今日、教会でキリストの十字架と復活を思い起こす聖餐式ができるのは、この人によって、弟子たちが案内されたからでした。「この人についていけ」とイエス様が命じたからでした。

 今、世の中においても、教会においても、性的少数者への迫害は厳しくなっています。その中で、イエス様が神様から言われたことを、ただ文字どおり受け取ったり、何も考えずに従ったのではなく、その根っこにある「愛」を実践するために、人々へ語り、呼びかけ、触れてきたことを、もう一度、噛み締めたいと思います。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。