見出し画像

神のせいで苦しんだ【チャペル】

《はじめに》

キリスト教会の牧師が大学のチャペルや幼稚園で話している2000字前後の短い聖書のメッセージです。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 使徒言行録9:15〜19

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》 「神のせいで苦しんだ」

 神のおかげで助かった、神のおかげで守られた、神のおかげで救われた……聖書からそういう話を聞くと、何となく、ありがたい気持ちになるかもしれません。自分も神に守られている、自分も神に支えられてる。そう思えば、ちょっと信じてみようかな……という気になるかもしれません。

 でも、時として聖書は「本当に信じさせる気ありますか?」と思わせる、厄介な話もしてきます。たとえば、タイトルにつけたような「神のせいで苦しんだ」人の話とか……誰の話かというと、キリスト教会では誰もが知っている、世界的な宣教者、パウロの身に起きた事件です。サウルやサウロとも呼ばれていますが、同じ人物を指しています。

 そう、彼は神によって窮地を救われたとか、敵から守られたとかでキリストを信じるようになったわけじゃありません。彼は神から苦しみを受け、神のせいで苦しんで、キリストを信じるようになった、ちょっと可哀想な人間です。

 パウロはもともと、イエス・キリストを神の子だとは信じていない人でした。むしろ、キリストを信じる者は、神を冒涜している異端者だと思い、処刑するために捕まえて回る迫害者でした。

 その彼が、ある日キリストの幻と出会い、「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」と問われます。突然の光と天からの声に「あっ、これは間違いなく神の声……」と思ったパウロは、「あなたはどなたですか?」と問いかけ、自分が敵対してきたイエスであると返されます。

 まるで、水戸黄門の登場みたいですよね。あっ、自分は間違ったことをしていたんだ。これから私は裁かれるんだ……というターンです。実際、彼は時が来るまで、目を見えなくされてしまいました。

 イエス様のおかげで、見えなかった目が見えるように、動かなかった足が動くようになった人たちは、チャペルでもたくさん紹介されます。でも、今回は真逆です。イエス様のせいで、健康なパウロは見えなくされて、自由に動き回れなくなり、人の手を借りないと目的地まで進むこともできなくなりました。

 言わば、呪いを受けたような状態。これで信じたのだとしたら、神様から罰を受け、その罰を免除されるために信じたような、これ以上、重い罰を受けないために信じたような「脅しと恐怖による信仰」みたいに思えてしまいます。

 実際、キリスト教を信じる人の中には、地獄に落ちるのが怖いから、神の怒りを招きたくないから、信じる人もいるでしょう。でも、「信じたら助けてもらえる」「呪いを受けず、悪いことを避けられる」「素敵なハッピーライフが手に入る」そう言われたら、喜んで信じたくなります。

 けれども、幻のイエス様は、パウロについてこう言います。「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」

 回心した人が、自分を信じた人が、自分のために伝道する者が、そのせいでどんなに苦しむか、どんなに苦労するか、知ることになる……これって、仲間を増やしたい人の台詞じゃないですよね? 仲間にしたい人へ「私の仲間になれば苦労するよ」「苦しむことになるよ」なんて普通言いません。

 先日、キリスト教概論を受けている学生から、こんな質問を受けました。「授業と関係ないですが、先生がなぜキリスト教に入ったのか知りたいです」……その場では、ちゃんと答えられませんでした。私は牧師家庭に生まれました。教会で起きる様々な問題を見てきました。牧師の父が躁鬱病になり、三度も四度も死にかけるのを見てきました。そんな父から言われた言葉が忘れられません。

 「牧師は素晴らしい仕事だぞ」……いやいや、死にたくなってるじゃん。上手くいかないで困ってるじゃん。僕らの前でも泣いてきたじゃん。イエス様の教えと業を語って、キリストの仲間を増やそうとして、そのせいで苦しむことになるのを見せてきたじゃん。どこが素晴らしいって言えるんだよ?

 不思議なものですよね……確かに見てきたんです。このめちゃくちゃな世界を。信じたものを伝えようとして傷つけ合い、信じたとおりにできなくて悩み、正直に誠実に生きようとしたら誤解される。パウロもまさに、そういう人生を進んできたし、そういう姿をさらしてきました。それなのに、神のせいで苦しんだ人がこれだけいるのに、やっぱり私はこの方の遣わす先に行きたいな……と思うようになったんです。

 目を見えなくされたパウロは、ものも言えない状態のまま、人に手を引かれて、自分が捕まえようとしていたキリストの弟子に出会います。彼は、無防備な自分を蔑むことも、恨みごとを言うこともなく、ただ、目が見えるように、聖霊に満たされるように祈ってくれます。

 それは、見えているときに、見えていなかった世界でした。仲良くなりたくなかった相手に、とりなしを受ける。仲間を処刑してきた自分に手を置いて祈られる。その手は震えていたかもしれません。アナニアも、自分たちを迫害してきたパウロを仲間に迎えるのを神様に反対していました。2人ともありえないと思っていました。でも、それが実現する。苦しんで、悩んで、神に嘆いて、新しい生き方が生まれていく。

 だから、私も正直に告白します。神のせいでたくさん苦しんできたことを。この道がどんなに険しいものかを。教育に、医療に、リハビリに携わっている先生がたが、ありのまま現場で起こっていることを、自分が直面してきた問題を伝え、その中で変えられてきた考え方、生き方を語っているように……。

 さあ、出かけていきなさい。食事をして元気になりなさい。あなたの苦しみは罰ではなく、神があなたを受け入れる、あなたを自分の業に遣わされているしるしです。あなたの道をこの地が知り、御救いを全ての民が知るように。アーメン。

ここから先は

0字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。