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まず、うちらから【礼拝メッセージ】

《はじめに》

キリスト教会の牧師が大学のチャペルや幼稚園で話している2000字前後の短い聖書のメッセージです。購入しなくても全文読めます。

《聖 書》 使徒言行録13:44〜47

日本聖書協会の「ホームページ等への聖書の引用について」に基づき、聖書の引用を適切な範囲内で行うため、聖書箇所のみ記載しています。該当する聖書箇所を「聖書本文検索」で「書名」と「章」まで入力し、「節」入力を省略すれば、章全体を参照できます。

《メッセージ》「まず、うちらから」

 サークルでも、イベントでも、お店でも、たくさんの人が集まってくれるのは嬉しいことです。新型コロナウイルスの流行で、なかなか人が集まりにくい今だからこそ、一生懸命工夫して、ガランとしていたチャペルや教室に、人が戻ってくるのを見ることは、自然と喜びを感じます。

 教会でもそうです。信徒の減少や高齢化が続く中、誰もが多くの人に来て欲しいと願っています。感染症が落ち着いて、会堂に集まる礼拝を再開したら、今まで教会に来ていた人も、新しく教会へ来る人も、たくさんの人がやって来るのを期待しています。ところがいざ大勢の人が集まると、嬉しさとは別の感情も出てきます。

 いつも座っていた私の席に、別の人が座ってしまった。始めて来た人への対応で、牧師とゆっくり話せない。見知らぬ人が会堂にいて、何だかちょっと落ち着かない。もともと集まっていた自分たちが、居心地の悪さを感じてしまう……大学でも、似たようなことがあるかもしれません。

 留学生をたくさん受け入れて、学生の数が一気に増えた。国際色が豊かになり、色んな文化の人たちと話せるようになった。その分、言葉の壁を感じることも増えてきた。お互いに近寄りにくいスペースができてしまった。学生一人一人に、教員や職員の割いてくれた時間が減って、新しく来た人たちを妬んでしまう。

 サークルの人数が増えたとき、ゼミのメンバーが増えたとき、やっぱり似たようなことを感じるかもしれません。もともとここにいた私より、新しく来た人が優先されて、それらの対応に、思わず反対してしまう。かつて、自分も新しい人が、たくさんの人が集まることを、願っていたにもかかわらず。

 それは、初代教会の宣教者パウロが、イエス様のことを宣べ伝え、人々が集まってきたときもそうでした。アンティオキアで、パウロとバルナバがユダヤ人の会堂で話を始めると、多くのユダヤ人は喜びました。初めて聞く教えに心を打たれ、次の日も、その次の日も、話してくれるよう頼みました。

 ところが、次の安息日になると、ほとんど町中の人が集まってきました。当然、ユダヤ人以外の人もいます。外国人で改宗した人もいれば、普段は別の神々を拝んだり、ローマ皇帝を神格化している人もいます。昨日、一昨日は、パウロの目の前で話を聞けたユダヤ人も、そういう人が増えたせいで、立ったまま、後ろの方でしか話を聞けなくなりました。

 パウロはこの厄介な人たち、改宗するつもりがあるのかないのか、真面目なのか冷やかしなのか、分からない人たちにも、丁寧にイエス様のことを話そうとします。これまで一度も会堂に集まったことがない、昨日まで酒に酔っていた人たちにも、目と目を合わせて語ろうとします。長年、会堂に集まってきたユダヤ人は、これを見てひどく妬みました。

 まず、うちらから、大事な話をするべきだろう。あの人たちには、後で話せばいいじゃないか? 会堂を出てからでいいじゃないか? 何で、最初から会堂の外で、もともといた私たちを優先しないで、彼らに向かって話すんだ?……そうして、昨日まで喜んで聞いていた、頷いていた話に、反対してしまいます。

 昨年から、YouTubeで礼拝を配信する教会も増えてきました。けれども、誰でも礼拝を見られるようにするか、もともと教会に集まっていた人だけが見られるようにするか、今も悩んでいるところがけっこうあります。「配信したところで、高齢の信徒はほとんど見られないから、そんなことしなくていいです」と言われたところもあります。

 まず、うちらから語ってください。うちらをどうにかしてください。あの人たちは、外の人たちは、後から来る人は、とりあえず置いといて、うちらが満足できるように助けてください!……思わずそう叫んだとき、神様は思い出させます。あなたの願いは、外の人たち、後から来る人たち、たくさんの人たちが、一緒に集まることではなかったか?

 「見なさい、わたしは異邦人の方に行く」……群衆を妬むユダヤ人に対し、パウロが放った言葉は、彼らを切り捨てた台詞のように聞こえます。でも、彼はこの後も行く先々でまず、ユダヤ人の会堂を訪れました。「見なさい、わたしは異邦人の方に行く」それは「あなたたちの方には行かない」という宣言ではなく、「みんなで、外の人たち、後から来る人たちの方へ行こう」「みんなで仲間を集めに行こう」という呼びかけでもあったんです。

 永遠の命、新しい生き方、希望の光は、自分が得ようとして得るものではなく、人と分け合おうとして、人に分かち合おうとして、神からもたらされるものです。神様は、あなたのために用意された、居場所や、時間や、働きかけを奪うのではなく、豊かにしようとして、誰かと分かち合うよう送り出します。行って、あなたも光に照らされましょう。

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柳本伸良@物書き牧師のアカウントです。聖書やキリスト教に興味のある人がサラッと読める記事を心掛けています。サポート以外にもフォローなどお気持ちのままによろしくお願いします。質問・お問い合わせはプロフィール記載のマシュマロ、質問箱、Twitter DM で受け付けています。