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徳を積むと果たしてチケットはご用意されるのか?

職場で後輩と共通スペースのゴミを回収していると、後輩がこう言いました。
「何でいつも私がやらなきゃいけないんだろうって思うんですけど、やっちゃうんですよね」
特に係りが決まっていなかったりすると、こういう雑務をやる人が偏ってしまう現象、職場に限らず様々な場面で見受けられるのではないでしょうか。周囲に呼びかけたり係りを決めてしまえばいいわけですが、そのリソースを割くくらいなら自分がやってしまったほうが手っとり早い事象、職場に限らず様々な場面で見受けられるのではないでしょうか。
「どうせやっちゃうなら、“これでひとつ徳を積んだ”と思うと気持ちが楽だよ」
私がこう返したところ、後輩はいたく気に入ったようでした。

ところで、私はソーシャルゲームをいくつかプレイしています。ソーシャルゲームといえばガチャですよね。魅力的なアイテムがピックアップとして予告さると、何とか手に入れたいという思いからついつい、
「引き当てるために徳を積まなきゃ!」
と口走ったりします。
運命の前にあまりにも非力な私達がお金を積む以外に出来ることは、せいぜい徳を積むことくらいなのです。
これはライブ等のチケットも然りです。

では、徳を積めば果たしてチケットはご用意されるのでしょうか?

機械的な抽選の原理を考えてみれば明白です。何らかの方法で乱数を発生させているはずですが、乱数の係数に「徳を積んだか」を組み込むことはひどく困難であり、徳を積んでも抽選結果がかわることはありません。徳を積むことで運命が変わり、大きな流れの中で引きの良さが変わるという説も否定はしませんが、少なくともミクロな視点でみれば、私が横断歩道で困っているおばあちゃんを助けたかどうかなんて、私が夜な夜な職場の冷凍庫の故障に気づいて一人せっせと中身を移動させていたかなんて、イープラスさんには知る術がないのです。

では、徳を積んでもやはりチケットはご用意されないのでしょうか?

最近興味深い体験をしました。ある公演で私のチケットはご用意されなかったのですが(イープラスめ……)、ある日「私と一緒に行きませんか?」と連絡を頂きまして、有り難いことにその公演に参加することが出来ました。旧知の友であればよくある話かもしれませんが、連絡をくださった方は、別の公演でたまたま出会い、たまたまお話させて頂いた方でした。
この展開で話を進めていくと「私は徳高い人間である」と自賛することになるので立場を逆にして考えることにします。同時期、私もチケットを余らせる事態になりました。突然参加させて頂けることが決まったため、すでに手配していたライブビューイングチケットが使えなくなってしまったわけです。空席を作るのも申し訳ないため、Twitterの検索先から「行きたいけれど入手が間に合わなかった人」を探して無料で譲ることにしました(無料なのは徳を積みたかったわけではなく、見ず知らずの人と金銭のやり取りをしたくなかったという理由からです)。便利な世の中です。すぐに候補は見つかりました。ではその候補の中から一体誰を選べばいいのでしょうか。判断材料としてそれぞれのタイムライン——普段の行い——を拝見することにしました。最終的に私は、自身の感覚に近く、間違っても「うはwwwタダでチケットもらったwww」とタイムラインに流すことがなさそうな人を選びました。
「私が徳高い人間である」かどうかはさておき、連絡をくださった方も、私との会話やその後に私のタイムラインを見る等して「私が隣に置いても問題ない人間である」と判断されたのではないかと想像します。
ある人が直近徳を積んだかどうかはタイミングによりますが、徳を積むようなタイプの人間であるかどうかは、思いのほか日頃の言動に反映されているものです。イープラスさんにはそれを知る術がない一方、人間にはそれを知る術があります。

徳を積んでもイープラスさんがチケットをご用意してくれることはない。
——しかし、
徳を積むと周りの人がチケットをご用意してくれることはある。

徳を積むと良いことがある、というのはこういうことなのかなと思いました。
毎度毎度、職場のゴミを回収している後輩の姿を少なくとも私は見ています。他の人も見ているだろうと思います。もしも彼女が困難に直面したならば、私含めて、普段の彼女の行いを見ている多くの人たちが、彼女に手を差し伸べるのではないでしょうか。
徳を積んでいる後輩に、徳を積んでいる全世界の人々に、幸が訪れますように。

※本文中、チケットのシステム代表としてイープラスの名前を出していますが特に悪意はありません。ありませんってば!

頂いたサポートは、美味しいものを経て、私の血となり肉となり次の作品となる。