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かたりくるい


一本の木

一頭の獣

一羽の鳥

一匹の虫

一瞥の視線


視線の無い世界

天地左右もなく、星空は足下に遠く、こうべは地に埋まる。

強烈な光線で二つの瞳はくらみ、閉じた。

閉じた眼でみたものは、凄まじい渦巻きと、優しいそよ風。

厚く重い雲と、近すぎる蒼い空。

鮮やかで深い緑と、汚物の土。

きらめき落ちゆく小さき朝露。


一本の木の下に一頭の獣がいた。

割れた黒い頭からは、脳みそがはみだして垂れ下がり、

胸は泥水に浸された異臭を放つ。

血の赤さを口蓋に残したまま、

午睡をむさぼる。

一本の木の根は、一頭の獣に優しく場所を与える。

一年前にも、その獣がやってきたことを思い出しながら。

そいつは木肌に食らいつき、登って、枝を次々ともぎ取ってしまった。

それでも、一本の木にとっては、当たり前で、

まるで獣の体毛がほんの少しぬけたようなものだった。


午睡から覚めた一頭の獣は、急に固い表土を掘り始めた。

こっけいなくらいに、規則正しく繰り返される獣の行動の目的は、わからない。

獣は可愛かった。


掘り返された土は、柔らかいふわふわの土の山になっていた。

だれの、何のための居場所だろう。

土の山は、雨と風、昼と夜の繰り返しを待つのみとなった。


そうして、500年、いや600年は経ったことだろう。

土を掘り返していた一頭の獣の姿を見た物など、まったくいなくなった。

獣もとうの昔に、息絶えていた。

土を掘り終えた頃に。


さらに400年経ったある時、月が厚い雲に隠れ、姿を現すまでに、獣が現れた。


一頭の獣の悲しみの咆哮が、暗い夜の空気を加速して突抜け、天地左右を回転させた。もう一度同じ咆哮が轟いた。

無限に続くエコーとなった咆哮は、厚い雲の間に隙間をつくっていった。

パズルのように、解き放れていった厚い雲は、やがて、うすくなり、エコーと同化していく。

同化したエコーと雲は、うつくしかった。


月は姿を見せ、一本の木と一頭の獣を照らし出した。

一本の木はすでに老木となり、姿はかつての立ち姿とは、違うものだった。

まるで、醜かった土を掘り起こした獣のように、裂けた表皮からは、樹液を垂らし、枝はきしみながらうねって折れ曲がっている。空洞になった根元には、頭蓋骨に空いたような、黒く大きな穴があり、無数の地を這う虫どもの巣窟となっていた。


新鮮なふわふわとした柔らかな若葉が、その時ほんの小さな部分に現れた。

これが、1000年後のあの一頭の獣の姿だった。

一本の木は月に、もうおやすみを告げ、日輪との交代の時間を待った。

暗闇と明るみのあいだ、一頭の獣は身体を横たえる。そこは、かつての柔らかい土の山の場所だった。この獣もまた、土を掘るだろう。そして、いつか、一本の木の若葉になる。


1000年経った今も、世界に朝を最初に告げるのは、鳥の小さな声。


一羽に続いて、さんざめく鳥どもは、巣窟に隠れた虫たちを食らい、地面に伏した獣を笑い飛ばす。



かなわぬこと、ありえぬこと、何日も、幾月、幾年もの時間がかかるものかたり。

かたりくるい。


 ©松井智惠       2007年11月1日筆「ゆっくり生きる」展(2008年)芦屋市立美術博物館カタログに寄稿    2023年2月8日改訂

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