感想:Netflix『パリスとお料理』 「映え」の源流にして極北

【製作:アメリカ合衆国 2021年配信】

セレブリティ/ソーシャライトのパリス・ヒルトンが、ゲストとともに料理を手作りする番組。パリスによる材料の購入・下準備から、毎回異なるテーマでセットを組み上げたダイニングでの食事の様子まで、料理〜食事の一連の流れを撮影している。

スマートフォンの普及やSNSの勃興とともに、料理や掃除の過程といった「日常の1シーン」を撮影・加工・編集し、スペクタクル化することが一般的になった。
『パリスとお料理』は、そうしたスペクタクル化の延長線上にある番組だ。
スーパーマーケットへの買い出しやキッチンでの料理といった「動きやすさ」が重視される場面にトレーンドレスや袖に羽飾りのついた服、長いネイルで現れ、メイクを直し自撮りをしつつ料理に励み、できあがった料理はグリッターやハイブランドのロゴを象ったプレートをふんだんに使ってデコレーションする。
一連の行為はすべて「撮られる」ためのものであり、いわゆる「映え」を突き詰めたものといえる。
あらゆるシーンで「見せる」ことを徹底するパリスの姿勢はそれだけで見応えがあるが、さらに興味深いのはパリスがこうした「世界のスペクタクル化」の源流にいる存在ということである。

本シリーズに先行してパリス・ヒルトンにフォーカスしたNetflixオリジナル作品として『アメリカン・ミーム』がある。
同作はSNSで人気を博すインターネットセレブリティとともに、そうした存在の先駆者としてパリスを取り上げたドキュメンタリーだ。
2000年前後からメディアの注目を集め始めたパリスは、私生活やパーソナリティをカメラに切り取られ、その拡散によってさらに知名度が上がり、結果的に存在感や影響力が強化される、という構造の中にいて、現在の「インフルエンサー」の走りだといえる。
ただし、パリスが「お騒がせセレブ」として最も注目を集めていた時期、彼女は必ずしも進んで撮影されていた訳ではない。
どこへ行くにもついて回るパパラッチやセックステープのリークによって、私生活や人格を商品化され、消費され続けたことにより、パリスにとって「カメラに撮られるイメージとしての自己」と「生身の身体・人格」はほとんど同一のものとなった。このため、カメラに撮られない「ありのままの自分」がある、という感覚が彼女には希薄だ。
パリスは華やかな装飾や言動によって、公に開かれた「パリス・ヒルトン」のイメージを絶えず強化する。パリスにとって、「虚像」としての自己を具現化し、「パリス・ヒルトン」の像を尊重する人とともに過ごすことは、彼女を傷つけてきた現実世界と対峙し、自分を愛するための手段なのだ。

料理という「私的・実用的」な行為を「見せる」ためにデコレーションしつくすこの番組は、『アメリカン・ミーム』で示されたパリスの姿勢を如実に表すものである。
最も象徴的なのは5話のターキー調理で、生の七面鳥という生々しく身体性に満ちた材料を、パリスは彼女の世界に属するものへと「征服」していく。自らの手で内臓を取り、下味をつけ、焼いたのち、グリッター・ブランドロゴに加えて花火までセットし、「撮られるための存在」に仕立て上げる過程は、パリスの現実世界との向き合い方、この番組の主旨を端的に表現したものといえる。

漫画やアニメを論じる際、ミッキーマウスやハローキティのように、メディアミックスによって文脈を超え、あらゆる世界に存在できるキャラクターを"「キャラ」としての強度が大きい"と表現することがある。
「パリス・ヒルトン」というキャラクターもまた、時間や空間の制約を超越し、背景(置かれた環境)に従属するのではなく、むしろ自己を主体として環境を規定していく強さを持つ。
1行ごとに違う色のカラーペンで書かれたレシピブック、ラインストーンで飾った調理器具など、キッチンをパリスの好みに合わせてスタイリングしていることや、つくる料理のジャンルに応じて毎回ダイニングの内装を変えることなどはその表れと感じた。


以上のように、「見せる」ことを突き詰める一方で、本作はスペクタクルができるまでの舞台裏や後片付けの場面といった「フレームの外の現実」を映像に挿入してもいる。
専門の業者がダイニングの装飾を撮影の始まる何時間も前から搬入・準備しているシーンが毎回挟まれるし、5話で大勢の犬とともにキッチンで自撮りをした後には、調理台から犬を1匹ずつ下ろし、彼らが座っていた場所を洗剤で拭くパリスの姿が描かれる。
これには画面上の美しい料理や装飾を成立させるために多くの人が仕事をしていることを強調する側面がある。買い出しに行くパリスが必ずマスクをつけていたり、ハンバーガー・ポテト・シェイクというポピュラーなメニューを動物性食品抜きで作るなど、本作は華やかなスペクタクルを志向する一方で現実を捨象してはいない。

また、パリス自身も、虚像としての自己を愛しているが、身体性そのものを完全に手放そうとはしていない。
『アメリカン・ミーム』の際に語られた「子どもが欲しい」という希望は、この番組でも頻出する。
子どもを産むこともスペクタクル化される時代ではあるが(パリスは既に子どもに自分の好きな"イケてる土地"の名前をつけようとしている)、それでも自分の身体を介して新たな生物をつくる行為は、像として見映え良く彩ることのできない生々しさを含む。
同世代で4人の子どもがいるキム・カーダシアンがゲストの1話で特に顕著なように、パリスは結婚して子どもを持つ生き方をモデルロールと捉えてもいる人物だ。
パリスの中にはイメージ化や脱・身体化の姿勢と、身体性への希求が同居している。スペクタクルの中に「フレームの外」を差し挟む映像は、こうしたパリスの二面性を反映してもいるのではないかと思った。

セレブリティ仲間で昔馴染みのキム、ラッパーのスウィーティー、YouTuberのレレ・ポンズ、母キャシーと妹ニッキーまでゲストも幅広く、また彼らの料理スキルがまちまちということもあって毎回の調理パートの展開は見応えがあった。
物理的に距離の近い母や妹よりも、メディアを通じて見た「パリス・ヒルトン」を慕うひと回り以上歳下のインフルエンサーとの方がうまくいっているようにみえるのが印象的だった。また、3話のニッキー・グレイザー回は、ゲスト達がパリスを「お騒がせセレブ」として見ているきらいがあり、ちょっと緊張感があったのだが、多少の失敗には動じないパリスのスタンスが指摘されるなど、ゲストを通して様々な角度からパリスを見る上では重要な回だったと思う。
あらゆるものを自分にとって美しい姿に染め上げるパリスのポリシーをリスペクトしているゲストとの回はムードも良く、楽しく観られた。個人的には自身も長い付け爪で現れながら器用に料理してパリスと盛り上がるスウィーティーとの回が特に好きだった。(スウィーティーがパリスと共鳴してその場を楽しんでいるからこそ、パリスがブレンダーを壊したときのリアクションにメリハリがあり、番組が見せたいものをすごくよくわかっているゲストだなと思った)

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