感想:映画『サイダーのように言葉が湧き上がる』 "海外から見た日本"+α/音響メディアへの讃歌


【製作:日本 2021年公開(上海国際映画祭にて2020年公開】

舞台は夏、日本の地方都市「小田市」と、市民が集うショッピングモール。
俳句を趣味とするチェリーは、話すことが苦手な少年。ぎっくり腰を患った母に代わり、モール内のデイサービスセンターでアルバイトをしながら、自作の俳句をSNSに投稿する日々を過ごしていた。
一方、同じ町に住むスマイルは、WEBで大きな人気を持つライブ配信者の少女。コンプレックスである「出っ歯」を矯正し、口元をマスクで隠しながら、身近にある可愛いものを発信している。
ふたりはモール内で起こったアクシデントで互いのスマホを取り違えたことをきっかけに知り合い、俳句とライブ配信というSNSでの発信を通じて少しずつ距離を縮めていく。
そんな折、チェリーやスマイル、モールに集う仲間のあいだで、デイサービスセンターの利用者であるフジヤマがいつも探しているレコードを見つけようという動きが起こる。
レコード探しを通じて小田市の歴史に触れ、さらに距離を縮めていくチェリーとスマイルだったが、チェリーは地元の夏祭りが開催される日に家庭の都合で引っ越すことを言い出せずにいた。

本作は、上海国際映画祭で先行公開されたことからもわかる通り、「海外から見たアジア/日本」を明確に意識した作品である。
また、JVCケンウッド・ビクターの傘下にあるアニメソングを中心としたレーベル「フライングドッグ」の設立10周年を記念した作品であり、主人公のヘッドホンがJVC製であることやメインプロットのレコード探しをはじめ、音響メディアへのリスペクトが込められている。

この映画の作画はビビッドな色遣いとグラフィカルで緻密な描き込みを特徴とする。夏の地方都市という舞台設定から、淡い色味で空や緑を彩ることも可能だと思われるが、本作ではそれを行わず、自然物も人工物もくっきりとした濃い線で縁取られている。ショッピングモールの内装や登場人物の服装・髪色なども、原色や蛍光色をふんだんに用いたポップなものだ。
こうした作画は2020年前後からみられる、日本のシティポップやアニメタッチのイラストの海外での流行を踏襲していると考えられる。アニメやアイドルを好む登場人物のあだ名がそのまま「ジャパン」であることも、海外からの視線を意識していることが窺える。

一方で、日本を象徴する街である東京ではなく、イオンモールを思わせるショッピングモールに人々が集い、地域の夏祭りもそこで行われる地方都市を舞台にしていることは、東京という一点に集約された「イメージ上の日本」ではなく、人口の上では大多数の日本人が営んでいる生活や、その中での人間関係を示そうとする姿勢が窺える。
作品のメインプロットが展開されるデイケアセンターは高齢化の表れであるし、日本人とメキシコ人の間に生まれ、日本語を話すが書くことのできないビーバーの存在も、現実の日本の人口情勢を反映している。

その中で、地方都市を閉塞感のある場所として描くのではなく、それぞれに歴史があり、そこに長く住む人々には矜持があるとするのが本作の特徴だ。
街やモールの風景はチェリーの俳句やスマイルの配信によって彩りを持つものとして描かれる。
俳句は日本の文化の紹介としての側面も強く、季語を通して情景を五・七・五の17文字で切り取ることで、ありふれて見える景色や心情も唯一無二のものにできるという俳句の特性を通して、小田市の夏やそこに住む人々、チェリーとスマイルの恋を、かけがえのない独自性を持つものとして示している。
スマイルの「身近なカワイイもの」を拡散する姿勢や、作中でのレコード探しの過程で「小田市がどんな経緯をたどってきた都市か」が(仕組み上は)世界規模で配信されることは、最新のツールであるライブ配信によって、これまで他の地域から見過ごされてきた小田市の特色を外の世界に知らせる役割を持つ。

フジヤマのレコード探しの中で、小田市がかつて現在のモールの場所にレコードのプレス工場を擁していたこと、彼がそこで働いていたことがわかる。また、フジヤマの亡きパートナーは歌手を志しており、小田市をPRする目的も兼ねて自身のレコードを販売していたというのだ。
両面にデザインがあしらわれた「ピクチャー盤」だったそのレコードは、表面にフジヤマのパートナー「藤山さくら」の姿、裏面に小田市の花火大会の様子がプリントされている。特定の地域の社会に向けてPRする「ご当地シンガー」は1970年代にはごくありふれた存在だったと思われるが、ひとつひとつの試みは多くの人の地域への思い入れや敬愛が詰まったものだ。
また、自らの歌声をもって小田市について発信しようとするさくらの姿勢は、現代におけるスマイルの活動と通ずるものがある。

本作では「ツールを用いてある対象への敬愛を伝えること」に焦点が置かれる。藤山さくらの歌はレコードを通じた小田市、そしてパートナーであるフジヤマへのラブレターだ。
チェリーの投稿・スマイルの配信もまた、SNSを通じて小田市や俳句(周囲の風景を叙情的に切り取ることは、周囲の風景への注目や尊敬なしには成り立たない)や身の回りの「カワイイもの」への敬愛を伝える行為である。
そして、チェリーの俳句は、次第にスマイルへのラブレターへと変化していく。
最終的にチェリーのスマイルへの思慕は、俳句の間接的・抽象的な表現と、目の前にいる本人に直接伝えるという手法が混ざり合い、音響装置を通じて大々的に告白される。ここではレコードやマイク・アンプといった音響メディアが、過去から現在にわたって誰かから誰かへの敬愛を伝えるツールとして使用されている。

物語の筋立てそのものはそれほど特殊なものではないと感じたが、海外から日本への目線を意識して描かれた地方都市へのフォーカスや音響メディアへのリスペクトは印象的だった。
また、フォロワー数が桁違いに異なるチェリーとスマイルが、俳句の投稿や配信を通じて同じ画面・時間を共有していることを表現するシーンはリズミカルかつ微笑ましかった。

個人的には外見のコンプレックスは気になるのであれば矯正すれば良いと思っているので、「出っ歯の矯正をやめる」ことを「ありのままの自己の肯定」とみなすのはやや違和感があったものの、ハンドルネームと裏腹に笑顔を見せられなかったスマイルが、チェリー達との交流を経て素直に自信を持てるようになったことを示す描写としては腑に落ちた。

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